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支那シフトの嚆矢は日中国交開始 必読改訂版 9/25

〔55〕「支那シフト」の嚆矢は日中国交の樹立
 昭和四十七年(1972)年九月の日中共同声明に始まる日本と中華人民共和国との外交関係を世に正常化というが、正しくは国交樹立だと思う。
   このほかに日中国交回復ということばがあるが、これは実質満漢分離工作であった辛亥革命により成立した漢族国家中華民国の正統的後継者を中華人民共和国と見做す場合である。国際法的には誤りであろうが、実は私も知らず知らずに用いる場合がある。
 元駐サウジアラビア大使から伺ったが、昭和二十四年に毛沢東が建国宣言を行った中華人民共和国が、台湾に亡命した中華民国と交代して国連連加盟国となるのが当然との声が早くから日本外務省内ににあった。
時期はおそらく昭和四十年代と思うが、これを主張していたのが後に駐イスラエル大使になったわが義叔吉川氏とのことである。その主張は、中華民国の正統的後継者は蒋介石の台湾政権でなく北京の毛沢東政権だ、との主旨であろう。
  日中共同声明に続き同四十九(一九七四)年一月の日中貿易協定により始まったのが日中貿易である。プラザ合意により請託を受けた竹下登が、円高ドル安工作を実行した昭末平初(1888~1890)期における年間日中貿易総額(輸出入合計)は通関実績で二〇〇億ドル弱であったが、平成三(一九九一)年に二二八億ドルに達し、以後、年間二〇%を超える高速増大が五~六年続き、平成八(一九九六)年には六〇〇億ドルを超えたが、毎年必ず輸入超過で推移したので累計の日本の対中貿易赤字は膨大な額に達した。
 この間、日本政界は激変の時期で、従米主義の宏池会、親中共の経世会(旧越山会)、親台湾の清話会の三派談合政党たる自由民主党の存立基盤が大きく揺れた結果、平成六(1994)年六月に「自社さきがけ」政権が誕生し、村山富市が内閣を組織した。翌年に内閣改造があり、経済企画庁の調査局部員だったわたしを指導して下さった元経済企画庁事務次官の大和総研理事長宮崎勇さんが同庁の長官に就いた。
 この村山内閣は「日本経済の支那シフト」を進める使命を負わされたものとわたしは考える。つまり一九七二年の日中共同声明により台湾と断交した日本が、支那本部(プロパー・チャイナ)の唯一の政体として承認した中華人民共和国(コミュニスト・チャイナ=中共)に対し、膨大な資金を供与すると共に、日本の工業技術・生産技術・品質管理技術を移転する壮大な国家プロジェクトを開始したのである。
 支那本部十八省の住民たる漢族は、由来自尊に偏する世界観すなわち華夷秩序に基づく中華思想を拠り所としてきたが、古代から常に北方騎馬民の侵入に晒され、歴史の半ば以上を征服王朝の支配下に置かれてきたことは自他ともに認めざるを得ない。

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