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ストック経済と中堅階層の壊滅 9/9

〔51〕ストック経済と中産階級の壊滅
    昭和末年から平成に掛けて,企業も家計も年間のフローを上回るストックを形成したことでフロー経済からストック経済に移行した日本社会では「一億総中流」が時代思潮となり、昭和大帝の崩御による諒闇の下でもまことにのびやかな時代であった。
 このような時代では、経済政策の目標として賃上げ率や消費者物価の動向よりも利子率や地価・株価動向の方が重要であるが、マスコミや左派文化人らがそのことに気付かなかったのは、労働者の生計が所得や消費などフローに依存し、資産階級の行動を決めるのは預金や住宅などストックという陳腐な図式――すなわち階級史観を墨守するからに他ならない。
 だが、中道評論家はもとより保守政治家までも挙って左派の偏った正義感に同調したのは、世界史上極めて特異な「行動基準と価値観の分断」に日本社会全体が犯されているからである。
 戦勝国アメリカの日本統治機関であるGHQと隷下のCIAは、まず報道機関を統制下におき、次に文部省と教育委員会を内面指導して学者・教員を監督せしめたのである。
 占領行政が実施した学校教育と社会教育の目的は、日本人に対するWGIP(戦争罪悪意識への洗脳)にあり、そのもとに改変を迫られた壮年日本人の国家社会観は、伝統主義と民主主義および革新主義が混在したものとなり、社会的行動が拠る現実主義国家観と教養が支える内心の理想主義国家観が乖離した二重基準のもとに生きていかざるを得なかった。青年層は学校ではマルクス史観と社会主義を学び、社会へ出たら自由主義と資本主義のもとに行動したのである。
 戦後三十年を経た一九七〇年代に、戦後生まれの「団塊の世代」八〇〇万人が日本社会を担う階層を形成するようになったので「プレ団塊」との間の分裂は収まるが、折からベトナム戦争の終焉で冷戦構造が解消すると共に、国家間が確立しないままの「団塊」と次のポストベトナム世代との間の断裂が芽生えたと思われる。
 平成初年は、わたしら「プレ団塊」が五十歳前後、「団塊」が四〇歳前後で、まさに社会を担う中産階級として中流意識に満ちていたが、あたかもその時、バブル景気が突如として崩壊したのである。
  わたしが、その時の日本社会の有様を後世に残すために『大暴落の真相』の執筆を思い立ったのは平成四(一九九二)年五月一日のことである。バブル景気の崩壊が平成三年二月と確定したのは平成三(一九九一)年の秋であるが、それから半年過ぎていた。
  当時、経済学者・金融学者たちはバブル崩壊というの事態をどのように観ていたか。二三の官庁エコノミストを除くほか経済学者にまったく縁がないわたしが覚えているのは、学習院大学教授奥村洋彦さんの見解である。
    昭和三十九(一九六四)年に名古屋大学を出て日本銀行に入行した奥村さんは、わたしを野村行きに誘導した山口泰さん(のち日銀副総裁)と日銀で同期であるが、昭和四十七(一九七二)に日銀を退社して野村総合研究所に移ったので、同年十月に野村証券に転社したわたしと途中入社の同期になったのである。
   ときどき会って茶飲み話をした奥村さんは、わたしが野村を辞めた時にブルッキンス研究所に派遣されていたから、それきり会うことはなかった。バブル景気が崩壊して数年経ったころ、野村証券昭和三十九年入社の会合にわたしも呼んでくれたが、そこに奥村さんがいた。時期は覚えていないが奥村さんは平成七(一九九五)年に学習院大学教授に転じているからその前のことであろう。
 当時最大の問題は銀行の不良債権で、これが解決しないうちは当分相場はムリとあって、野村の同僚らに今後の解説を求められた奥村さんは「現在数百兆円ある銀行預金の金利を三%下げて、貸付金利はそのままにすれば年間の利ザヤが一〇兆円以上増えるから、数年で解決」との説明であった。
 奥村さんの私案でなく、そのような計画が実際に大蔵省か日銀あたりである程度できていたのだろうが、余りにも虫が良すぎて政治的にはムリな話として、立ち消えになったものと思う。
 中流意識を共有した「プレ団塊」と「団塊」は、時代の流れでストック経済に踏みこんでいた。投資対象は金融貯蓄とローン付不動産あるいはゴルフ場会員権の組み合わせであるが、バブル景気の崩壊がその進路を塞ぎ、突如訪れた「平成大停滞」のなかで多くは挫折したのではあるまいか。
 以後三十年、インターネットの登場で始まった新たなビジネスがもたらしたのが日本社における格差の拡大であった。そのなかで「団塊」と「ポスト団塊」たちの多くは「平成大停滞」の淀んだ沼に浮草として漂ってきたのである。


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