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インフレと名目通貨の進行 9/1

〔43〕江戸時代のインフレと名目通貨化の進行
 江戸幕政の初期とはいつまでか。これについては人により見方が分かれるが、本稿は慶長金銀を発行した慶長六(一六〇一)年から元禄金銀発行の元禄八(一六九五)年までの約一世紀を江戸初期と観ることとする。
 この期間に日本社会では「カネ詰まり」が進行した。
カネ詰まりとは要するに、経済規模の拡大に対応するだけの信用が足りないことから生じる社会・経済現象である。
具体的に言えば、社会に信用(本位財=貨幣)が不足しているため投資機会があるのに投資できず、溢れる需要を生産が満たせない状況である。
 江戸初期の全国総人口は明確でなく十人十色の推計しかないが、幕府開基の頃の一八〇〇万人が享保初年には三〇〇〇万人ほどに増加したようだ。
 当然コメの需要が増えたが、水田開発が盛んでコメが増産されたため、需給関係はさほどタイトにならず、金銀の御定相場は一両=銀五〇匁を六〇匁に改訂したものの、金一両=米一石は据え置かれた。つまり玄米一石の目標価格が金貨は一両のままなのに、銀では五〇匁から六〇匁に値上がりしたのである。
 戦国時代から増産が進んだ銀は、江戸開府以来増大する貨幣的信用を供給したが、金に対する比価が下落し、コメに対しても同じ率で下落したので、結局コメと金に比べて銀だけ価値が下がったが、当時の通貨量は銀が金を上回り、銀本位が主流だった上方の一般社会では米価の割安感が支配的だったとみられる。
 そもそも本位財は希少物資が択ばれるが、本位財が相対的に不足するカネ詰り現象のもとではその交換価値がさらに上がるのは「希少性の原理」からして当然で、よって慶長小判と一般物資との交換比率は慶長小判が高くなる(物価は下がる)方向に動くのである
 ようするに本位財の信用界への投入量が増加しない限り、財貨(一般物資)の価格(物価)およびサービスの価格(賃金)も同じく低下するわけで、江戸初期にはこれが「金高デフレ現象」として露われたのである。
 つまり本位財が不足するカネ詰り社会は基本的にデフレで、本位財で測った物価が不断に下落する「万物下落の法則」の支配のもとに在るが、逆に外部から本位財が投入されればこの下落を食い止めることができ、さらには物価が高騰する事態さえ発生する。前者をリフレ、後者をインフレと呼びいずれも景気は好転するが、後者のインフが景気低迷を伴うこともあり、スタグフレーションと呼ばれるのである。
 江戸時代は、他の文明社会と同様、インフレーションが進行した時代であった。幕政初期に金銀複本位制を採った幕府は、複本位制のもとに金と同等の本位財であった銀をしだいに名目化し、やがて金を唯一の本位貨幣とするようになるが、これは国際金融の中心になった欧州諸国の幣制に倣ったものである。
 名目貨幣を支える強制通用力は国家の抱える暴力装置によるものであるから、軍が発行する臨時的な貨幣代替品「軍票」にも一脈通じるところがある名目通貨は暴力通貨と呼んで差し支えないのである。
 「およそ官の行うところ瓦石と雖も通用すべし」と断じて暴力性による名目通貨の公信力を指摘したのは、幕府勘定奉行荻原近江守重秀であった。荻原は低品位の銀貨を発行しながら「たとい量目が少なくても、銀が入っておるだけマシではないか」と嘯いたのである。
 かくして江戸時代に、銀貨の名目通貨性はインフレの進行と同期して進んだが、金貨においても金銀比価を膨らます(銀高にする)ことで名目通貨的要素が拡大したのである。。



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