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満洲小史 11/25

〔94〕滿洲の歴史
 支那本部(チャイナ・プロパー)を永年統治してきた朱氏明朝を順治元(一六四四)年に滅ぼした満洲族の愛新覚羅氏は、大清帝国を国号として北京を都と定めた。
 満洲族の故地で愛新覚羅氏が発祥した満洲(現在は中華人民共和国東北地方)では、原住満族の多数が北京に移住しため人口が希薄になり、順治十(一六五三)年には遼東招民令を発して漢族を入れて開墾せしめたが、康煕七(一六六八)年に封禁令を発した。
 豊かな自然環境を守るため漢族の流入を禁じたのであるが、清朝末期になると山東省や河北省から多くの生活難民が流入するのを防げなかった。当時日本は霊元上皇・後西院天皇の代で政体は四代将軍家綱であったが、紀州発祥の鈴木姓の倭人系農民が三河から江戸へ大量に移住していた時代である。武蔵野に流入して水田耕作を進めた三河倭人は、欠史八代の末裔が関東に土着した縄文民および北関東在住の騎馬系タカス族と混交して江戸っ子となり近世日本を形成したが、同時期に満洲では漢族の流入が著しかったが、満漢通婚についてはこれを嫌う慣習があり、さらに禁令が出されたが、実際のところはかなり行われた筈で、天津三羽烏の一人呉達閣(改名して呉滌愆)の祖母も満族であった。
 満族とは中華人民共和国の人種分類上の呼称で、満洲人のほかに旗人であった蒙古人・漢人らを一括した呼称である。満洲はしばしば支那本部の地域区分の「州」と誤解されるが、これは日本人が「洲」の
略字として「州」を用いたため生じたものである。
 満洲はマンジュの音訳で、火葬の習慣が示すように広義のマニ教徒たる満洲族がマニ教の主要な信仰対象の文殊菩薩を自称したと白頭狸は考えるのである。自称をマンジュとする満洲族の一般的族称は「女真族」で、ツングースの一派高句麗の末裔である。本来狩猟民であるが牧畜や畑作農業に広げ、周辺の契丹族(蒙古)と交易を通じて交流し混血も生じた。
 女真族の風習として著名なのは騎馬に便利な「旗袍」(ズボン)と兜を被るのに適した「辮髪」である。漢族は剃髪を嫌ったが、清朝政体は死罪を以て漢族に強請したので支那人の代名詞になった辮髪を、陳舜臣は日本武士の慣習たる「月代」の源流、と主張した。
 白頭狸が陳舜臣の説に与するゆえんは、かつて羅津に進出し騎馬術と軍事学をタカス族から学んで帰朝したヒノモト族(大伴氏)とこれに随伴して渡来したタカス族が起源となったヤマト武士の特徴たる月代と丁髷を思い浮かべたからである。
 丁髷は、額を剃った月代以外の長く伸びた頭髪を頭上に結い上げて鬢付け油で固めたもので、兜を被る時になると髷を切って解き、兜と頭皮の間のクッションとするのである。かたや辮髪は、月代までは右と同じで、頭上で結う代わりに後ろへ垂らしたもので、それ以外は丁髷と同じものである。
 高句麗の羅津は今日の朝鮮民主主義人民共和国羅率特別市であるが、ここから中華人民共和国吉林省琿春市にかけての一帯は、当時ヤマト朝廷の特区で欠史八代の居留地であった。
 高句麗時代に柵城府が設けられていた琿春の地は、八世紀になると高句麗の後身渤海国が五京の一つ東京龍原府を置いて東方統治の拠点とし、日本海を越えて対日貿易を行ったが、渤海使船出の跡が今に残る北部のポシェット湾は、一八六〇年に大清帝国からロシア帝国に割譲された。
この地に置かれた東京龍原府が渤海国の首都であったのは三代目渤海王の文王大欽茂の七八四年から七九三年にかけてで、日本では平城京から長岡京への遷都が行われた時期である。
 その後、首都は東京(琿春)から上京(現在の黒竜江省牡丹江市寧安市渤海鎮)に遷って上京龍泉府となるが、渤海滅亡後に琿春に住み着いたのが女真族である。唐と新羅連合軍に滅ぼされた高句麗の人民扶余族が故地満洲へ逃げ帰り契丹・鮮卑・蒙古族と混血してできたのが女真族(満洲族)である。
 本朝では鳥羽天皇の永久三年にあたる一一一五年、女真族が満洲から華北にかけた一帯を版図とする金国を建国する。蒙古系の契丹と漢族系の北宋を滅ぼした金国はジンギスカンの元により亡ぼされ、一六一六年に再興した後金国が中華本部に入って大清帝国を建てるのは、本邦では後水尾天皇の元和二年で、徳川氏が幕政を開始した翌年のことである。
 まるで徳川幕府と対発生したような大清帝国であるが、その終焉は明治維新よりも半世紀近く遅れた。逆に言うと、急テンポで幕末工程を進め、快速で維新まで到達した日本と、切り替えが遅れた清国との
差異が両国の近代化の差となって現れるのである。
 明治維新の最大の功労者は自ら幕政を閉じた徳川慶喜であるが、これに範を求めたのが粛親王であった。

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