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白頭狸随想5 「note拾得」に対する所感1/31 2/2改訂 必読のこと

   信州在住の篤学拾得子が再開された「note拾得」の内容は、各位が見てください。
 洞察史学を進める白頭狸は、かつて武田考元先生から学んだ陰陽五行十二運論を常に参照しております。武田先生は個人の運命に限定してその理論を展開されましたが、狸は即座に、これは一国・一社会の運勢にも適用できることを確信しました。
 時は昭和六十三年の暮れも押し詰まったころでした。今考えますと、昭和二十年に始まった「戦後サイクル」の四十二・三年目にあたり、その前半が終了した時期です。
 折から重病に侵された荊妻緑の容態を案じた狸は、予か著書のほとんどを入手して熟読していた武田考玄先生のお宅を訪ね、面談により妻の容態を察知しようと考えたのですが、思とこがあり、妻のことについては一語も発せず、ただ自分の命式と自分なりの解釈を記した紙面だけを提出して、武田先生の判断を仰ぎました。
 考玄流では「推命術は六親に及ぶ」ということなので、私個人の命式だけでも荊妻の容態が判明することを期待したのですが、残念ながら先生の口から、荊妻のことは一言も出なかったのです。
 一瞬、「四柱推命も所詮この程度のものか」と落胆した私ですが、僅かの時間内で、しかも一見しても深い考察を要すると分る紙面を見ただけでは、さすがの武田先生も六親のことに考えは及ぶまい、と考えを改めました。
 推命術の教えを受けるには等級を分けたコースがあり、わたしが選んだのは一回五万円の中伝で、一応テストのつもりでした。今思えば二十万円の奥伝を選ぶべきであったと思います。
 ともかく、その日は自分のことを判断していただき、内容を理解して十分納得したうえでで改めて出直し、妻の容態を判断して頂こうと思ったのですが、その数日後、容態が急に悪化して緊急入院した妻は、予て手術を受けた慶応病院に再入院いたしました。旧病棟の個室に泊ったわたしは、同じ階に事業上の同志で親友の高橋治則君の岳父岩沢靖さんの名札を見つけて早速お見舞いに行ったことを、たった今思い出しました。
 慶応病院の旧病棟で夜を明かした私が、外の空気を吸いたくて部屋を出た途端、向かいの部屋から昭和天皇崩御を知らせるラジオ放送が流れてきました。慌てて部屋の戻ると折から荊妻緑が息を引き取る所でした。
 時に昭和六十四年一月七日のことであります。尊崇してやまない昭和大帝と二十年近く連れ添った敬愛する妻が同じ日に亡くなったことで、わたしは大きく変わりました。それまでは財テクを駆使してひたすら投資し、富を成すことを人生の目標としていたのですが、この日を機に、金儲けを人生の意義と思うことができなくなったのです。 
 ならば今後は何をなすべきか。自分の天命は何なのか。今からは天命に従って生きていこうと思った私は、武田流により自分の四柱を改めて見直したところ、「時柱の印綬が地支に通根しておる」ことにより「印綬格」であることに気が付き、一種の霊感に打たれましたた。
 因みに、昭和四十五年頃に四柱推命を知ったわたしは、その奥の深さを感じましたが、最初に出会った本の幼稚さに飽き足らず、あらゆる流儀を渉猟して自習したところ、他の流儀によればわたしの命式はすべて「偏財格」でした。
 偏財格は社会に流通する財を扱う経済人の命式ですが、野村証券の事業法人部業務企画課長に就いたわたしが、自分も意義を知らない大仕事をしたのが昭和五十二、三年のことです。わたしの四柱は逆七年運ですから、立運は昭和二十三年で、昭和五十三年からの十年間は大運偏財にあたります。
るので、「なるほど自分が証券業で成功した理由はこれか!」と一人で納得していたのですが、そのわたしの命式は武田流では印綬格となるのです。
 昭和四十七年十年に野村証券に転じたわたしは、
 武田考玄先生の本を入手したのはどこだったのか、今は忘れましたが、あくまでも理屈を通すその姿勢に科学性を感じたわたしは、以後は武田流に傾斜していきました。
 折も折、数寄屋橋のィ・アイ・イの事務所に高橋治則君を尋ねたら、机上に東小路鐸という人が著した四柱推命の本が載っていたので不審に思い、尋ねたところ、「これを持ち込まれたので、まあ出版も始めようかな、と考えているところです」との答えです。高橋君が簡単にくれたその本を持って帰って一読したところ、これまでに読んだ各流派とはおのずから異なる所があり、「これは武田流と出が同じではないか」と感じましたが、質的には比較にもならず、その後再び開くことをしないままでした。
 妻が病魔に侵されたのはその後のことで昭和六十二年の夏の事でした。慶応病院に入院してかれこれ治療を尽くしましたが、一進一退のまま一年が過ぎ、ついに運命の日が来たのです。
 昭和大帝の崩御と妻の病死に際会したわたしは、当時四十八歳でしたが、それまでの投資業など続ける気がなくなりました。
 「よし、今後は印綬を意識して歴史研究家となり、昭和大帝を仰いできた日本人の一人として鴻恩に報うことを心掛けむ。さらば亡緑も霊界から見守ってくるるべし」と決意したわたしは、折から買い占め中の日本レースの株を処分することとしたのです。
 かくして歴史の探求に向ったわたしが、早くも覚ったのが、戦後日本がアメリカの間接統治下にあることです。そこで三月から書き始めたのが『平成日本の幕末現象』で、十二月に発行いたしました。
 その出版記念パーテイに出席いただいたのが、小学校の恩師で高名な画家となられた稲垣伯堂先生です。伯堂画伯が紀州徳川家の顧問をしておられたことも、わたしの日本史研究に大きな影響をもたらしました。
 さて、日本の国運の歴史サイクルは、おととし令和三年から新しい周期に入りましたが、本年は胎→養→長生→沐浴→冠帯→建禄→帝旺→衰→病→死→死→墓→絶の十二運でいえば、「胎」を過ぎたところで、まだ「長生」には至らず、目下は「養」から「長生」に遷る所かと存じます。
 長生は十二運中最高の吉運と言われますが、そのあとに「沐浴」という試練があり、これを経てようやく「冠帯」(「臨官」ともいう)を帯びて世に現れるのです。その後は「建禄」で、官位を登り詰めて皇帝にまで至り「帝旺」を謳歌するのですが、時すでにバブルが兆すことになりますね。
 これを日本の国運の「戦後サイクル」に当てはめると、何年がどれに該当するか、同志はお分かりになるでしょう。そこで白頭狸がこれから開く「彌勒下生サイクル論講座」の前段として、「国運十二運論の稽古」を有料口座の嚆矢といたしましょう。


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