見出し画像

満洲問題と国際共産主義(1) 12/17

〔107〕満洲問題の本質
 大東亜戦争の深層、とりわけ満洲族の故地満洲が東三省→満洲国→満洲帝国→中共東北地区と辿った経過について不可解の感を拭い去ることが出来ない白頭狸が考察を進めてきたのが本稿である。
 満洲の本質についての考察は、裏返せば中華民国→中華人民共和国の本質についての考察になり、延いては大清帝国「化外の地」台湾島→日本領台湾→中華民国領台湾→一「つの中国の台湾省」と変転してきた台湾島の本質に関する考察にもなる。
 ともかく、東アジアの一角に関する地域的問題でなく近現代世界史の根本に関わる重要な問題として満洲問題を考察してきた白頭狸は、ここにきて、ようやく満洲問題解決のとば口に立つたのである。
 辛亥革命の掲げた三民主義の内、民主主義は帝政が廃止されたため形式的には実現したが、人民が選んだ選良による議会制はいまだ実現せず、中国共産党の党大会で選ばれた党員が軍事・経済などすべての政治事項を指導するという一党独裁の専制体制のままであり、実質的に民主主義は実現できていない。 
 次に、民生主義については、WWⅡ後の中共が米ソ冷戦下にできた「対中国輸出統制委員会(CHINCOM) 」の規制のもとに長期間の経済封鎖に置かれていたことから経済が伸びず、延いては民生も向上しなかったが、平成三(一九九一)年から始まった「日本経済の支那シフト」により経済成長が始まった結果、革命後実に八〇年にして民生は著しい向上をみせることとなった。
 最後に残る民族主義こそ最大の問題で、孫文が「革命いまだならず」と死の床で嘆いた所以である。
 目下、民族虐待で世界の耳目を集めるウイグル(回部)をはじめ大清帝国の外藩であった西蔵(チベット)・内蒙古(モンゴル)は辛亥革命後も中華民国領内に留められ、民族主義は貫徹されなかった。
 満洲は大清帝国にとっては外藩どころか清朝発祥の故地であるが、現在の住民人口が原住民の満族15%に対し、移民の漢族85%と大幅に逆転していて満族自治区とするためには重大な障害となる。かれこれ見渡すと、中華人民共和国の民族主義は様々な困難を乗り越えねば実現は難しい。
 そもそも今日の中共は、これだけの多民族を統合したことにおい、正しく帝国なのである。同じ意味で大帝国であったソ連はグラスノスチとペレストロイカで崩壊し、十幾つかの共和国が生まれた。
 中共すなわち中華共産主義帝国もソ連の後を追い解体するのが筋道と観るのは短見で、ここに一つの問題がある。それは支那大陸の地政学的特性である。
 世界最高峰が連なるヒマラヤ連峰に降り積む雪が水源となる大河川が縦横に分断する支那大陸において最大の政治課題は治水である。多種の民族が大河の流域に棲み分ける支那大陸において、人口希少の時代には必要が少なかった治水事業は、やがて流域人口が増えてくると避けられなくなるが、何しろあの大河であるから、流域に棲み分けた民族のレベルでは成り立たず、地域を総合した広域治水が必須となる。
 広域治水を実現するには各地の民族国家を超越する強大な統治権力が必要となる道理で、それが諸国の上に皇帝が君臨する政治体制である。秦・漢の支那大陸統一は、かかる地政学的事情に迫られた歴史的必然として実現したものである。
 近年、飛躍的に発達した土木工学による大規模ダムの建設は治水問題を解決したかに見えるが、その一方で流域人口は増加し、おまけに下流になるほど流域都市の人口が濃密となるから、治水事業に内在する大災害の危険性は大規模ダムの増設によって、なおさら高まっているのである。
 秦・漢による武力統一で成立した支那社会がオリエント的帝王制を取らざるを得なかった理由は右に述べた通りで、辛亥革命もこれを覆すことが出来
なかったから、帝政を廃したのちも支那社会は専制主義体制を固持したのである。
 辛亥革命後の支那社会で帝政復活を試みた袁世凱を屈服させたのは、”国際世論“の猛反対である。世界の民主主義化を叫ぶ彼等の正体が国際共産主義(トロツキズム)であることは、二十世紀を通じて世間一般に知らされることはなかった。反対意見は勿論あったが、保守・反動・復古主義等の悪名を蒙らされて草叢の蟲声のごとく鳴きやんだ。
 当時民主主義を叫んだ勢力の中心が米国に侵入したトロツキスト即ち国際共産主義であることが、近来白日の下に晒されてきた。これまでも「デイープステイト」論とか「世界金融連合」論として巷間を漂っていたが、世間は噂話としてしか扱わなかった。それがこの数年俄かに浮上した背景は何か?
 白頭狸の観るところ背景は三つある。①にソ連邦の解体、②にトランプとバイデンの大統領選挙、③にウクライナ戦争、これである。

いただいたサポートはクリエイター活動の励みになります。