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変動為替とバブル景気 9/3

〔46〕変動為替とバブル景気
 為替の変動相場制は昭和四十八(一九七三)年に行き渡ったが、輸出立国を自任する日本の財界は円高恐怖症に陥り、円切り上げと同じ効果をもたらす円高を嫌った。財界ばかりでなく、円高で輸入物価が安くなり経済的利益を受ける消費者も円高を恐れたのは不合理で、理解しがたいが、これに関して今も伝わる逸話は、昭和四十六(一九七一)年八月二十日那須御用邸で昭和天皇に御進講した蔵相水田三喜夫が、「ニクソンショックによる円高で日本が苦境に在る」と奏上したところ。天皇は「円切り上げを国内では暗いことのように云うが、日本円の評価が国際的に高まるのは望ましいと思う。そのような明るい面を国民に知らせる必要がありはせぬか」とのご下問あり、水田は返答に窮したということである。
 つまり円高恐怖論は「円高は大変な国難なので財・官・民あげて挙国一致の精神で乗り切ろう」との財務・金融当局の世論工作が発生源と思われるが、目下の「黒田緩和」における円安を非難する消費者の声がまだ小さいのは、そのような事情が潜むのであろうか。
 通貨当局が円高を抑えるため外貨市場で大量のドル買い介入を行った際、対価として放出された円が滞留して過剰流動性を産み、物価や地価の高騰をもたらした折しも、昭和四十八(一九七三)年十月に発生した石油危機が追い打ちをかけ、日本社会は「狂乱物価」に翻弄されることとなった。
 このことで日本の弱みは「円高恐怖症」ということが世界中に知れ渡り、以後に発生した日米貿易交渉すなわち繊維・鉄鋼・家庭電器・自動車などの貿易摩擦に関する交渉で米国のチラつかせる円高圧力に対し常に屈し、輸出規制や輸入増などの要求を受け容れるばかりの日本の弱腰には、実は外交以外のあるいはそれ以上の原因があった。在日米軍の存在である。
 プラザ合意により円高ドル安工作の実行を引き受けた竹下登の目標は、当時のドル/円相場の二四〇円を二〇〇円程度に落とすこととみられるが、結局円高を止めることが出来ず、三年後の一九八八(昭和六十三)年にドル/円は一二〇円台にまで低落した。
 昭和六十(一九八五)年のプラザ合意当時の日本は、円高不況と言われた深刻な不況が輸出産業を中心に進行していて、円高恐怖症の経団連の意向を汲んだ通貨当局は、大量のドル買い介入により円高にブレーキを掛けようとした。
 ところが、実はプラザ合意の時に世界最大の工業品輸出国になっていた日本は、必然的に到来する円高を利用して将来の日本経済を設計すべきであった。今にして思えば、それは「脱工業化社会」に対応するハード(半導体技術)とソフト(情報処理力)の能力育成である。
 ところが円高を「国難」と捉えた中曽根=竹下政体は、公共事業を中心に景気を支えるため莫大な予算を社会インフラに投入した。日銀は数度の利下げで公定歩合を二・五%に落とし、財政当局は円高不況対策を名目にして公共工事予算を拡大した。
 これにより到来したのが、物価安定のなかでの地価・株価の暴騰すなわち昭末平初の金融バブルで二度目の過剰流動性である。バブル景気は、景気動向指数によれば昭和六十一(一九八六)年十月から平成三(一九九一)年二月までの五一カ月とされるが、一般がバブル景気を実感したのはブラックマンデー後の昭和六十三(一九八八)年以後であろう。
 今にして思えば、中曽根=竹下政体のとき、膨大な公共予算の一部でもソフト分野や半導体開発に投じていれば、世界の産業構造は今とはまったく違ったものとなり、GAFAの一角を日本が占めていたはずである。
 いくら後悔しても始まらないが、実は國體日本は、その裏で重大な工作を展開していたのである。

 重大な工作とは何であったか。ここでは公開を憚るので、有志の方は、わたしのアドレス  info@kleio.ne.jp  にお問い合わせください。なおサポートとして若干の御芳志をお忘れなく。


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