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〔120〕大東社と石原莞爾と吉薗周蔵

〔120〕大東社と石原莞爾と吉薗周蔵
 〔118〕〔119」はタイトルに後藤新平を掲げながら、後藤にほとんど触れずに終わりました。
 後藤新平について触れるとWWⅡ以前の日ソ関係を本格的に暴かねばならず、複雑になるので後に廻し、ここでは周蔵が最も近かった石原莞爾と大東社の関係を考察してみます。

 周蔵が上原勇作の死後に、上原の遺命によって仕えた荒木貞夫が大東社員であったことは間違いないのですが、周蔵自身は最後まで大東社に入らなかったと落合は信じております。
 渡辺政雄からの情報や、予備陸軍中将貴志彌次郎(士候6期)の中国により、任務(主としてアヘン製造)以外は上原勇作から距離を置くこととした周蔵が、誰よりも尊敬したのは陸軍中将石原莞爾(士候21期)です。

石原莞爾は戦前の日本では周知の軍人で、戦後日本人が「アメリカの核の傘」を信じていた平和ボケ時代にはややもすれば忘れられがちでしたが、近来その評価が高まり、数々の言動にスポットが当たっているのは、日本人がアメリカ依存を脱却する兆しとして見るべきです。
周蔵に石原莞爾を紹介したのは、上原の事実上の副官で周蔵の上司でもあった甘粕正彦(士候24期)です。
フランスから帰国した甘粕正彦が満洲に移動したと聞いた吉薗周蔵は、昭和五(1935)年四月から二カ月の予定で満洲に出かけますが、目的は張作霖爆殺事件(昭和三年六月四日)の後の満洲における情勢変化を自分の眼で確かめることです。
大正元(1912)年に陸軍大臣上原勇作中将(旧制3期)の個人付特務となった周蔵に憲兵中尉甘粕正彦を近付けた上原は、自分と周蔵との間を繋ぐ存在として位置づけた甘粕を通じて、多くの指令を周蔵に下します。
 甘粕が実行したが、周蔵が関与していない事件も多く、その一つが「大杉栄事件」です。
 「甘粕事件」とも呼ばれるこの事件の概要は「憲兵大尉甘粕正彦らが関東大震災に乗じ、かねて目を付けていた無政府主義者大杉栄とその愛人伊藤野枝および大杉の甥橘宗一を殺害したこと」ですが、大正期の日本社会を象徴する重大事件とされ、軍事法廷の判決で犯罪事実として法的に確定されたことから社会的に公定され、歴史教科書に必ず掲載されておりますが、「軍法会議が認定したから歴史的事実として間違いない」との論理を鵜呑みにするのは歴史学ではありません。

 大杉事件の真相は大東社による謀略で大杉栄らが実際に殺害されていないことを証明した上、事件の背景と真相を詳述した拙著『國體志士大杉栄と大東社員甘粕朝彦の対発生』を「落合吉薗秘史刊行会」が発刊したのは本年一月です。
その根拠の一つが、昭和五(1935)年の「周蔵手記・別紙記載」にある下記の文章です。


 青山学院教会 正統派(メソジスト教会)
 ポンピドー神父
 この神父の妹との間に(上原)閣下の子供
 その子供と甘粕さんの愛人関係
 (青山)教会に潜り込んだるは(伊藤)野枝
    【中略】
 大杉栄 伊藤野枝は共産党ではあるが、後藤新平の草であった由。

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