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金と銀とコメ 1ノ2 8/29

 〔37ノ2〕金銀貨とコメ 1-2
 前に「幕政初期に米一石金一両を経済運営の目安とした」と述べたが、諸大名が独自の領国経営を行っていた時代は、コメの需給は地域によって大きく異なり、一概に米価を論ずる事はできない。
 しかし為政者として、当時の最も基本的な財貨であるコメの価格に無関心でいられるわけもなく、必ず目安とした数値があったはずである。
 わたしが一石=一両を力説するのは、コメ一石に一人一年分の食糧としての意味があるからで、むろん全国民が米ばかり食うたわけではないが、コメは食糧の象徴であらゆる食品を代表するから、米価は生活費の基準とみられていたのである。
 尤も、研究を進めているうちに一石=一両が成立したのはいつ頃のことか確かめたくなってきた。江戸幕政の幣制は金銀複本位制で、幕府は慶長十四(一六〇九)年に御定相場(公定為替相場)を金貨一両=銀貨五〇匁とし、元禄十三(一七〇〇)年に一両=六〇匁に改定したが、前にも述べたように、これは金銀比価を国際水準に近づける意図が秘められていたと思える。
 それに御定相場はあくまでも幕政の目安であって現実の為替市場には権力は介入しなかった。しようにもできなかったのだ。
 米価は関西では銀貨建て、江戸では金貨建てであったが、それぞれ独立的に決まったので、金銀貨の為替は米価を介して定まったともいえるが、通貨の実効価値の基準をコメの市価に求めたのは、今日のいわゆる「ビッグマック平価」のようなものであろうか。
 幕府は国民ひとり一年間の食糧を米一石とみなし、当時の農業技術で一石を生産する水田の面積三〇〇坪を以て一反とした。幕府がこのように定めたのは金・米・土地の基本単位を「一」に揃えるため、と私は観たい。
 慶長小判発行の慶長六(一六〇一)年から元禄八(一六九五)年までの九五年間の米価について、ネットに掲げられた「As6673氏」の調査を借りると、元和堰武直後まで銀二〇匁で推移していた玄米一石の価格は、一六二〇年代に入ると騰がり始め、銀三〇匁が相場となり、一六四〇年頃には銀五〇匁を超えた。
 また、「しらかわただひこ氏」のブログ『コインの散歩道』によると、金一両に対応する銀貨の量は、慶應から幕末少し前までほぼ六〇匁で推移していた。例外は銀品位を極端に落とした「宝永銀」であるが、一七〇六年から一七一〇年まで四年間しか通用しなかったので一応無視できる。
 因みに「銀〇〇匁」とは、銀という金属の重量ではなく、丁銀など秤量貨幣の重量をいう。丁銀は銀と銅の合金で、重量はほぼ四三匁であるが、含有銀量は慶長銀なら八〇%である。
 享保元(一七一六)年に八代将軍に就いた吉宗は六代将軍家宣の侍講として「正徳の治」といわれるデフレ財政を遂行した新井白石をなぜか排斥したが、幣制そのものは「正徳の治」を引き継いだから、享保小判は正徳小判及び慶長小判と同一品位で、貨幣価値としては同一なのである。
 米価を論ずる場合、見落としてはならないのが淀屋米市である。淀屋は山城国岡本荘から出た武士岡本氏の家号で、初代の三郎右衛門常安が豊臣秀吉の恩顧を蒙り、伏見城の造営や淀川の堤防改修に尽力した後、徳川家康に仕えて大坂開発を命じられ、中之島を開拓して今日の大阪経済の拠点とし堂島米市・雑喉場魚市・天満青物市のいわゆる「三市」を発展させた。
 なかでも承応・寛文年間(一六五二~一六七三)に淀屋の庭先から始まった「淀屋米市」は本邦における取引所の濫觴で、元禄十(一六五七)年に対岸の堂島に移され、後の「堂島米会所」となる。
 淀屋に関しては拙著『明治維新の極秘計画』に詳しく書いたことを覚えているから、今回の本稿執筆に当たり、一〇年ぶりに披いて見たら、何と「シュメル」の語が出てきた。
 平成二十四(二〇一二)年に出版されたこの著は、落合秘史第一巻
と題した通り、わたしの最初の歴史書である。まだ京都皇統からの秘史伝授を受けていなかったわたしは、この時にはまだウバイドについて何も知らず、シュメルと混同していたのである。
 ともあれ、堂島米会所は市場初めての先物取引を始めたことで、世界経済史に永遠に名を留めることとなった。


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