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大室寅助が選ばれた理由5


 〔5〕大室寅助が選ばれた理由 
 令和四年五月三十一日 改訂六月十一日
  承前
 以上みてきたところからすれば、政体天皇が御花園系から閑院宮系に交替した時期は一七八〇年の光格天皇即位と観るのが妥当であるが、この計画が実行に移されたのは早くも十八世紀の初頭で、一七〇四年生まれの東山天皇の皇子直仁親王とされた欧州大塔宮の公子が、一七一〇年に新井白石の建議によって永世親王閑院宮を創設したことを以て実行に移されたのである。
 その公子の素性が問題であるが、欧州大塔宮(護良親王の王子王孫で欧州へ渡った者の子孫)であることは間違いなく、現ベルギー王室の祖となったヨハン・エルンスト四世(1658~1729)か、ザクセン=ゴータ=アルテンブルク公フリードリヒ二世(1676~1732)あたりの公子と観ることになるが、究極のところは未詳である。
 政体天皇の閑院宮系への交替を図った國體天皇とはどなたであったのか。院政期には上皇(治天の君)が任じた國體天皇の役割を、南北朝合一後は永世親王伏見殿の代々が果たしてきたが、時宜により上皇が乗り出すこともあった。
 朝廷と将軍秀忠の間に軋轢が生じた江戸初期の寛永六(1629)年、灸治療を口実に中宮徳川和子の産んだ興子内親王(明正天皇)に突如譲位した後水尾天皇(1596~1680)が、以後も後光明→後西→霊元と都合四人の子女を皇位に就け、自らは上皇として君臨したところに、いかにも國體天皇の雰囲気が漂う。
 後水尾が譲位した時の伏見殿貞清親王(1594~1654)は後水尾天皇と同年配で、相謀って譲位を企てたものと思われる。
 後水尾の皇子霊元上皇(1654~1732)には、世人が今日も全く知らない重大な秘事がある。享保十(一七二五)年に修学院中之御茶屋において将軍吉宗と面談し公武合体の談合をしたことで、世人は信じられないだろうが、確実な書証も物証もある。
 この会見に先立って欧州國體では、欧州大塔宮家の王子を日本に戻す計画が建てられていた。御花園皇統に替る新しい血を欧州から入れるためである。
 この里帰り計画は、ワンワールドの東極で國體天皇に任じた十三代伏見殿貞致親王(1632~1694)と十四代邦永親王(1676~1726)の父子が、ワンワールド西極の國體ハプスブル大公家の当主レオポルド一世(1640~1705)に要請し、大公の指示を受けたけた欧州大塔宮家のザクセン・コーブルク公らが同族に諮って実行したものと観るべきであろう。
 時の伏見殿十五代貞建親王(1701~1754)は霊元上皇の外孫で、霊元上皇と相謀ってこれだけの重大事を成し遂げたのである。
 因みにハプスブルク大公が「欧州北朝」なること、およびザクセン=コーブルク=ゴータ家とオランイエ=ナッサウ家が「欧州南朝」なる経緯について、拙著『日本皇統が創めたハプスブルク大公家』(平成二十九=二〇一七年・成甲書房刊)に詳述してあるので、是非一読願いたい。(続く)

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