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満洲族の北京残留を誰が決めたか 12/2重要改訂 

〔96〕満洲族の北京残留を決めたのは誰か?
 張作霖を愛新覚羅家の傭兵とする策謀はワンワールド國體の最高首脳堀川辰吉郎と愛新覚羅氏の頭領醇親王が協議して立案したものとみて間違いはない。
 策謀の目的は満漢分離後の満洲(東三省)に対する満洲族の宗主権保全にあることは慥かであるが、馬賊の頭領あがりの張作霖を雇用した背景について説明を要するであろう。
 清朝時代には満洲を遼寧省・吉林省・黒竜江省の三省とし併せて東三省と呼び、東三省将軍の統治下に置いた。
 「省」の呼称はシナ本部の省と同格を思わせるが、東三省は満洲族発祥の地として、漢族の中華本部(チャイナ・プロパー)十八省とは明確に区別され優遇された特区であった。
 そもそも大清帝国とは、中華本部(漢)を軍事占領した満洲族が軍事支配下の漢族の政治参加を認め、統治原理を「満漢平等」とした満漢合併国であって、これに蒙古(モンゴル)・西蔵(チベット)・ウイグル(回鶻)が外藩として加わった複合民族国家である。
 満漢平等の原則のもとに重要官職は必ず複数とし、満・漢族に同数を振り宛てたが、人口は漢族が満族の数十倍にも及ぶから、形式的には平等でも実質的には不平等である。
 これをみて思うのは一時唱えられた「アメリッポン論」である。米国が日本国を吸収して五十一番目の州にするというのであるが、これにょり、仮に日米両国を版図とし、日米平等を統治原理とするアメリッポン国が樹立されて首都を東京におき、北米五十省をアメリカ発祥の故地として特区とした場合を想像して見ればよい。
 在日米軍(満洲八旗)が自衛隊(漢人緑営)を指揮下に置き、在日米軍・米国外交官・企業家人ら少数の米系人と、人口の圧倒的大部分を占める日系人が「米日平等」を原則として重要官職を日系・米系同数にした場合を想定して見よ。それが当時の清朝の状態である。
 それを不平等として怒る日系の心裡を見抜いた米系首脳がひそかに「米日分離」を目論み、実行のために日系志士を操縦する場合を想像して見よ、その踊らされた志士に当るのが当時の孫文である。
 米系に踊らされた独立党の革命軍が東京に迫った時、首都防衛に当っていた横田海兵隊の司令官が、政治不関与の皇室の要請を入れて革命軍と和睦した場合を想定して見よ。その司令官に当るのが北洋軍閥の袁世凱である。
 かくして米日の政治的分離が成功し単独政権となった新生日本が「日本は古来一つ」などと言い出し、アメリッポン時代に特区とされていた北米五十省に対する領土権を主張したところ列国がこれを認めたとしたら、それに当るのが満洲東三省である。
 辛亥革命の結果、満洲族が自族発祥の地東三省を捨てた形となったのは、漢族の生活難民が不法・合法の移民として満洲の地に流入したことで人口的に漢族に乗っ取られていたからである。奉天の治安維持を主務とする盛京将軍も革命前夜には、馬賊の首魁の漢族張作霖に頼る始末であった。
 これを喩えれば、不法・合法の日系移民が北米五十州に流入して人口の大多数を占めた挙句、日系ギャングの頭領が治安維持に当っていたことになるが、さすがにそれは喩としても無理である。
 満洲族が満洲を捨てた理由として従来の史家が説くのは、清朝社会で優遇され貴族化した満族旗人が農牧中心の満洲に帰ろうとしなかったからと説くが、それだけではあるまい。
 世襲親王家として満洲に膨大な領地を有していた粛親王が縁戚のモンゴル王族と組んで起こした「第一次満蒙独立運動」は満蒙分離策の本筋に即して中華民国からの独立を図る軍事行動で、これを川島浪速など多くの日本人志士が支援したことは周知である。
 この時、兵器を供与するなど軍事支援の姿勢を見せていた参謀本部支那課長浜面又助大佐(十四期)が突如支援を打ち切ったのは大隈内閣が方針変更したからで、これにより第一次満蒙独立運動は失敗に終わった。 
 この時の大隈内閣の方針変更について、史家がこれまで説いてきた「国際協調のため」を全くの誤りとは云わぬが、白頭狸の結論は「ワンワールド國體が満洲の今後についてある決定をしたから」である。
 以後の満洲は、張作霖の僭主国を経て柳条溝事件→満洲事変→満洲建国→日満敗戦によるソ連統治→国民党侵入→国共内戦→国民党の台湾逃避となって今に至るが、この流れの奥底に横たわるのが大正六(一九一七)年にワンワールド國體が下した「ある決定」である。
 この「ある決定」が何であったか、はその後の満洲が辿った道から帰納的に推断するしかなく、狸はそれを進めているのである。
 


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