地元の地理と歴史シリーズその3 新喜多新田と森河内

 本シリーズ2では大和川の付け替えについて書きました。今回はその付け替えで出来た新喜多新田について書きます。ほんの30年前までは森河内でも長瀬川沿いは(大乗寺の所在地も)新喜多という地名でした。現在でも森河内の上流(高井田と西堤の間)には新喜多がありますし、大阪市放出~京橋駅のあたりまで細長く地名が残っています。
 
この新喜多の地名は大和川の付け替え後にその川跡の新田開発を請け負った鴻池新十郎、鴻池喜七、今木屋多兵衛の名前を一文字ずつ寄せてつけたものといわれています。鴻池新十郎は鴻池善右衛門の分家筋で大坂十人両替の一人。喜七も同族でしょうか。鴻池の両氏は後に撤退し、新喜多新田は今木屋の所有管理となります。今木屋は材木商で後に早瀬姓を名乗っています。勘のいい方はお気づきですね、大乗寺のそばの早瀬橋は昭和の区画整理の時その早瀬氏の姓からつけられています。

黄色いところが旧大和川(久宝寺川)の川跡である新喜多新田


 今木屋は新喜多を上新田と下新田とに分けて別々に会所(管理事務所)を設け支配人を配置します。その境界は長瀬川と放出街道(左専道)との交点に架けられた新田橋です。上新田の土地は戦後の農地解放で当時の農家へ渡り、最後に残っていた現在の新喜多中学校の土地も、昭和30年に当時の布施市(現東大阪市)に売却されます。下新田もほとんどが農家へ渡っていますが、一部、いまでも早瀬氏の所有の土地があるそうです。下新田会所跡の碑が城東区新喜多東1丁目にあり、下新田の支配人職を代々継いできた楠家の表札が上がっており、早瀬管理事務所の名も残っています。
 
 自転車で八間道路を鴫野へ向けて走ると、新喜多東の所だけ土地が高くなっています。それだけ、土砂が堆積し天井川になっていたことがわかります。そらあ、洪水も起こしますね。
 
 さて、新喜多新田では畑作として綿花の栽培がおこなわれます。新田は周辺より土地が高いため水の確保が難しく井戸が掘られ、森河内でもはねつるべがよく見えていたそうです。河内木綿の名で全国的にも有名になりますが、明治以降、綿花栽培も外国産に押されて衰退します。替りに人口が増えた大阪市の近郊である利点を生かし、新鮮な野菜を天満の市まで運んでゆく、というのが森河内の農業の中心となります。確かに、私が小さかった頃は畑でほうれん草や水菜栽培がされており、各地に野菜洗い場がありました。
 
以上、新喜多の地の話を整理しました。次回の本シリーズでは、長瀬川の流れ先である第二寝屋川を調べて書いてみたいと思います。
 

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