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No.16 地元の地理と歴史シリーズその7 放出街道 左専道

 東大阪市森河内と大阪市城東区諏訪を隔てる細い道は放出街道と呼ばれる街道です。中高野街道の延長であり、剣街道と言ったり。北は守口~南は平野までに達する旧街道です。
 かつての摂津国と河内国との国境がこの街道であったようで、今では大阪市と東大阪市の市境になっています。

放出街道 全体

 特に森河内近辺で放出街道関係は、現在の城東区諏訪の1丁目2丁目あたりはかつての左専道村であったことが注目されます。特に「させん堂 不動寺」が有名で、「ドッコイそうは左専道の不動」と言って相手を妨害するような言い方もあったとか。以前も書きましたが、この地は菅原道真が太宰府へ赴くとき、本貫の河内国道明寺へ立ち寄るためにこの放出街道を通り、さらに諏訪神社で休憩を取ったという伝説があります。左専道という名称の由来を想像できる面白い伝説です。
 
 ついでにこのタイミングで、放出の名前の由来についても諸説ありますが整理します。放出は古代に開発された地で、難波入江に臨む内陸水域の要地であったこともあり、
1、難波入江に突出していたことから、鼻出とか端出と言われた。
2、榎並庄から離れたところに存在していたので、ハナチデ・ハナチイデと言われた。ハナチデは古語で、母屋から外に続けて建て増しした建物。
3、宮殿外の馬の飼育場(牧場)を放出と言うそうで、難波京の放出であった。
4、大和川の氾濫を防ぐため、樋門を設けて水を放ち出していた。
5、熱田神宮の神剣(草薙剣・天叢雲剣)を僧・道行が盗んで逃げる途中、大嵐に遭って放出付近に漂着。恐ろしくなり神剣を放り出して逃亡した。その場所が阿遅速雄神社で、後に熱田神宮へ剣は戻される。
 以上のようにさまざまな説があるも、放出(ハナチデ)が本来の読みで、訛ってハナテンと呼ばれるようになった、とのこと。
 
 以前、放出の名前の由来を「罪人を放出した場所」という説を何名かに伺いましたが、残念ながら、その出拠は確認できませんでした。
 むしろ放出では、ここに生まれ治水翁とまで呼ばれた政治家「大橋房太郎」を輩出しています。彼は1885年の淀川の大洪水を目の当りにして、法律家になる夢を捨て、淀川の治水を自らの仕事と受け止めます。31歳で府議会議員となり、淀川改修の必要性を国に訴えます。その熱意が実って、1896年に淀川等の河川改修が決定します。それまでは細く蛇行していた淀川が現在の幅広くまっすぐに大阪湾に流れ込む形になったのもこの河川改修によるもので、洪水の被害が大きく軽減しました。放出街道沿い放出の正因寺に彼のお墓があります。

淀川河川事務所より転載
大橋房太郎

 何気なく住んでいて当たり前な地域の光景ですが、調べると色々な発見があって面白いですね。

参考
【東大阪市史、平成8年】【大阪府全志、大正11年】【鶴見区昔ばなし】等
 

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