社会を変革したいと望むなら

 2010年NHK大河ドラマ『龍馬伝』を見て、坂本龍馬のように天下国家を変革したいと思うのが男子の常。私もその例に漏れませんでした。けれど、これが大きな落とし穴なのです。

文筆家の池田晶子は次のような文章を残しています。
「人はよく、他人や社会を責めて糺そうとするけれども、他人や社会を責めて糺そうとするほど、自分は正しいのか、というふうにはけっして考えない。自分が変わらずに、他人や社会の側に変われというのだから、そんなの無理である。しかし、およそ『革命』という言葉が意味をもつとしたらな、そのような全一的意味でなければ無意味であろう。私が、いかなる形態であれ、社会革命、すなわち何らかの社会システムを変革することによって革命と思い為すことを、信用しないゆえんである。人間が、己れの精神性を自覚し、それを真善美の方向へ向けて各自で変革する以外に、この世に革命なんぞ、絶対にあり得ないのである。」(池田晶子『己の精神を革命せよ』)

儒教の基本的な考え方に、修己治人というものがあります。自分の身を修めることによって、相手を治める、という考え方です。それに基づいて、修身斉家治国平天下という考え方をとります。つまり、まず自分の身を修める、そのことによって、自分の家を整える、そのことによって、国(昔でいう藩)を治める、そのことによって、天下(国家)を平らかにする、ということです。この順番を間違えないようにすることが大切なのです。人はすぐに、天下国家から入りたがりますが、それは必ず失敗に終わります。
 
同志社大学の創立者・新島譲も同様の文章を残しています。
「邦家のために尽くさんとなれば、まず自己の改革を要するなり。まず人心の改革を要するなり。人心の改革なくして、物質上の改革なんするものぞ。」『新島襄の手紙』p206
 
幾ら社会制度や国家政体を変えても、肝心の「人心」が変わらなければ何にもなりません。そして、人の心を変えるには、それだけの自己修養が無ければなりません。ですから、長期的な視点に立つと、世の中を動かしているのは「政治」ではなく「教育」なのです。政治が物質上の改革とすれば、教育は人心の改革であり、より抜本的な改革と言えるでしょう。

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