「感謝」の本当の意義

 カエルの眼は動いているものしか見えません。それは人間の眼も同じです。人間の眼が静止しているものを見ることができるのは、絶えずわずかに眼球を動かして、静止しているものを捉えているからです。これを「固視微動」と言います。実際、人間の眼に麻酔をかけて、固視微動を止めると、やがて何も見えなくなります。
 あらゆる生物は、「時間的微分作用」を受けます。「時間的微分作用」とは「慣れ」のことです。慣れると、存在しているものを認識できなくなるのです。手足があるのは「当たり前」、親がいるのは「当たり前」、空気や水があるのは「当たり前」。物事が「当たり前」の領域に沈んでいくと、認識できなくなるのです。
 この「時間的微分作用」に対するところの「時間的積分作用」が「感謝」です。「感謝」は、「当たり前」の領域に沈んでしまったものを、もう一度意識の領域に上げる作業です。

「当たり前」の対義語は何でしょうか?
そう、「ありがとう」です。「ありがとう」は感謝の言葉です。
毎日、お風呂に入っていると、お風呂の「有難味」が分かりませんが、災害などで1か月ほど入浴できなくて、1か月ぶりにお風呂に浸かったとき、本当に感動するでしょう。「お風呂ってありがたい」と。

文筆家の池田晶子は、次のように述べています。
「『ありがたい』とは、じつは、『在り難い』という意味です。そのようなことが存在することが難しい、難しいけれども存在した、そういう意味なのです。在り難いことが在ったということは、つまり、奇跡ということです。奇跡とは、何か変わった特別の出来事を言うのではなくて、いつも当たり前に思っていたことが、じつはすごいことだったと気がつく、そういうことなのです。この奇跡に対する驚きの感情が、感謝という感情の基礎にあります。」
(『当たり前なことにありがとう』『死とは何か』所収)


昨今、スピリチュアルな領域にとどまらず、心理学の分野においても、「ありがとう」と「感謝」することの意義が再認識されています。精神科医の樺沢紫苑の著書『幸せの授業』のなかに、次のようなくだりがあります。

「そうそう、友達やコミュニティでがっつり交流しなくても、オキシトシンを分泌する強力な方法があるんですよ。」
(略)
「手軽も手軽。生活の中に『ありがとう』の言葉を増やすだけです。自分が言うのでも、人から言われるのでも、どちらでも大丈夫です。」
(略)
「人に親切にしたり、それに対して感謝してもらったりすると、お互いにオキシトシンが出るんですよ。」
(略)
「しかも、同時にセロトニン、ドーパミン、さらには『エンドルフィン』という、モルヒネの6倍以上の鎮痛効果を持つ脳内麻薬、いわば究極の幸福物質も同時に出るんですよ。」

最後になりましたが、美輪明宏さんの人生訓を引用して、終わりにしたいと思います。

「ずっと幸せでいる方法がたったひとつあるとしたら、それは感謝する心を忘れないことです。食事がおいしくいただけること、好きな人に会えること、生きていられること。なんでもよいから、感謝する心があれば、自前でいつでも、いくらでも幸せを調達できます。」


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