大人物の要件

禅の言葉に『三時』というものがある。

現世での行いの報いが現世で報われる「順現報受」。

現世での行いの報いが来世で報われる「順次生受」。

現世での行いの報いが来来世で報われる「順後次受」。

来世があるのかどうかは、私たちには分からないが、今は「ある」として話を進めます。

この『三時』という考え方は、日給、月給、年俸のような関係にあります。

日給は日払いで、年俸は年払い。しかし俸給として大きいのは、年俸のほう。その代わり、日給や月給のように報われるのが近くない。

儒教でしばしば用いられる小人と大人という言葉をこの『三時』に当てはめるとすれば、

順現報受は小人、順後次受は大人。

さて、この予備知識を述べたあとに、勝海舟の『氷川清話』を引用しましょう。

「ぜんたい大きな人物というものは、そんなに早く現れるものではないよ。通例は百年の後だ。いまいっそう大きな人物になると、二百年か三百年の後だ。それも現れるといったところで、今のように自叙伝の力や、なにかによって現れるのではない。二、三百年もたつと、ちょうどそのくらい大きな人物が再び出るのだ。そいつが後先のことを考えてみているうちに、二、三百年も前に、ちょうど自分の意見と同じ意見をもっていた人を見出すものだ。
 そこでそいつが驚いて“なるほどえらい人間がいたな。二、三百年も前に、今、自分が抱いている意見と、同じ意見を抱いていたな、これは感心な人物だ”と、騒ぎだすようになって、それで世に知られてくるのだ。知己を千載の下に待つというのは、このことさ。
 今の人間はどうだ。そんなやつは、一人もおるまいがのう。今のことは今知れて、今の人にほめられなくては、承知しないという“しり”の穴の小さいやつばかりだろう。
 大勲位とか、何爵とかいう肩書を貰って、俗物からわいわい騒ぎたてられるのをもって、自分は日本一の英雄豪傑だと思っているのではないか。」(勝海舟『氷川清話』)

勝海舟らしい辛辣な言葉が並んでいますが、表題の『大人物の要件』を勝海舟の考えにならって考えると、私たちが普段同時代の人を高く評価しているその人は、必ずしも「大人物」ではない。むしろ、「大人物」でない可能性の方が高いのです。

なぜなら、「大人物」が私たちに知れるのは、少なくとも百年後だからです。そうであるのに、同時代の民衆に崇拝されているとすれば、「大人物の要件」を満たさない。

もっと辛辣な言葉で言えば、「今のことは今知れて、今の人にほめられなくては、承知しないという“しり”の穴の小さいやつ」、つまり、順現報受の小人なのです。

ですから、「大人物の要件」としては、同時代の評価を受けない、ということが挙げられます。

司馬遼太郎が『竜馬がゆく』のなかで、坂本龍馬に次のように語らせています。

「えらくはならん。しかし百年後に、竜馬という男はこういう仕事をした、と想いだしてくれる人がいるだろう。そんな男になる」

実際、坂本龍馬が評価されるようになったのは、この50年ほどのことです。

以上のことを総合すると、「大人物の要件」としては、「順後次受」の大人、「知己を千載の下に待つ」という覚悟のある人物でなければなりません。

今、民衆の崇拝を受けている人々が、百年後、二百年後も同じ評価を受けているかは疑わしいものです。

最後に夏目漱石の言葉を引いて擱筆とします。

「百年後に第二の漱石が出て第一の漱石を評してくれればよい」

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