数の概念と精神の成熟

 人間誰しも、快楽を希求して日々活動しているわけですが、必ずしも快楽ばかりが幸福ではありません。明治時代の碩学、大西祝は、『悲哀の快感』『辛苦』などを著し、私たちにとってマイナス(負)である「悲哀」や「辛苦」もまた幸福にとって欠かせないと述べています。
 私たちは、小学生の時代、やがて習う負の数という概念に触れることなく、正の数の範囲のなかで算数を学びます。正の数、負の数に、数の概念が拡張されるのは中学校に入ってからのことです。
 じっさい、小学生は快楽(+)だけを求めて、日夜過ごしているような感を受けます。けれど、やがて成長して、学ぶはずです。悲哀や辛苦もまた人生の大事な構成要素であることを。
 とは言え、現代社会を見渡してみても、大人たち自身が、快楽=幸福という単純な図式で、活動しているようにも見えます。安逸、快適、快楽を求め、懊悩やストレスを忌避する傾向があります。けれど、悩みやストレスや苦しみがこの世から無くなれば、一体どうなるでしょう。宇宙飛行士が宇宙の無重力空間に行くと、負荷が筋肉にかからないので、トレーニングマシンで人工的に負荷をかけることはよく知られています。
 身体的負荷だけでなく精神的負荷も私たちの人生の生き甲斐を構成しています。大富豪の老人たちが、南の国に移住すると、3か月ほどで日本に帰りたくなるのです。ストレスフリーな環境に耐えかねて。
 このように、私たちが嫌う負荷は、身体的にも精神的にも私たちの幸福にとって大事な役割を果たしているのです。にもかかわらず、「負」を避けて「正」ばかり求めるのは、精神が未熟であると考えざるを得ません。
 さて、中学校に入って、正負の数に数の概念を拡張したのですが、まださらに数の概念を拡張する余地は残っています。

それは一体なんでしょうか。

 高校2年生くらいでしょうか。数の概念は、実数にとどまらず、虚数(imaginery number)を取り入れ、複素数まで拡張されます。
 世の人々は、実学、実益、実業のみを人間の経済活動と見做しがちですが、これもまた未熟な精神であると言えます。文学や哲学、神職や僧侶、こう言った虚学や虚業をなおざりにしているのが、現代の我々ではないでしょうか。
 もうすぐ一万円札が新しくなりますが、これまでその肖像を担った福沢諭吉は、徹底した実学主義の人物でした。福沢諭吉の影響は現在に至るまで甚大で、ややもすると、現代人を拝金主義に陥らせた感もあると思います。結果として、徳義心の源泉である道徳や宗教が置き去りにされ、世は実益、実業に支配されて行きました。この状況は、まだ実数の範囲しか習っていない高校生のようなものです。未熟であると言わざるを得ません。思い出してください。二乗して-1になる虚数単位というものを初めて習ったとき、「そんなのあり得ない」と鼻で笑ったことでしょう。けれど、複素数は高校数学において重要な部分を占めているのです。
 それと同様に、文学、哲学、宗教等は、社会の根底において、重要な役割を担っているのです。福沢諭吉は子供の頃、皆が拝んでいる稲荷様のご神体をあばいたと言います。徹底した合理主義者でした。けれど、人間が真に成熟するためには、「実」と「虚」を併せ持つことが重要なのです。
 このように、人類史において、数の概念が徐々に拡張されてきた経過は、1人の人間が精神的に成熟する過程と類比的なのです。

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