ハイニナル

 夕焼けが優しく海を照らす時間が好きだ。何もかもがゆっくりになっていき、この時から明け方までは1番時間の流れが遅く感じるから。僕は砂浜にそっと腰掛けた。柔らかく息を吹きかけたら舞い上がりそうな真っ白の砂が辺り1面に広がっていて、寄せては引いていく青と金色が混ざりあった波が、音もなく砂たちを拐っていく。あわよくばこの身も。と思うが、なかなかそうはいかないのが現実だ。人生に諦めを感じた時、僕はこの海辺にやってきた。それが、春であっても冬であっても。
「何してるんすか。」
 突然、頭上から柔らかく温かみがある声が降り注いだ。僕はその声の方を向いた。そこには、艶やかで滑らかな髪をポニーテールにした女性がいた。服装からして女子高生だろう。
「スーツ姿のままでこの砂浜に座るって。勇気ありますね。隣座っていいすか。」
 その人は、僕の返答も待たずに僕の左隣に座ってしまった。お互い話の話題が見つからず、僕は何回も幾千の砂粒が大海原に拐われるのを見た。
 「質問、答えて貰ってないんすけど。」
 そう言って、その人は幼さが抜けきらない顔を僕に向けた。口元にはタバコが咥えられていたが。
 「ちょっと嫌なことがあってね。そういう時は、いつもここに来て気を紛らわせてるんだ。それも、今日で最後だけど。だから、君がタバコを吸っているのも言わないであげるよ。」
 くたびれた笑顔を張りつけながら僕がそう言うと、その人は一言そうすか。と言って新しい煙を肺に入れた。タバコの先端から少しづつ灰が砂浜に落下する。落ちたところだけ薄く濁っていて、自然と自分を重ねてしまった
 「今日で最後ってことは、人生終わらせるってことすか?」
 最初僕に話しかけてきたのと同じ声質でそう聞いて来たその人は、別に僕の選択を失望するでもなく阻止する訳でもなさそうだった。所詮は他人。そういうことだろうか。
 「まあね。気が変わったら終わらせないけど。今のところはそうだね。」
 「そうすか。じゃあ自分帰りますね。今夜はハイに気をつけてください。それでは。」  
意味深なことを言いながらその人は去っていった。ちょうど、水平線が太陽を飲み込むタイミングだった。僕は砂浜から立ち上がり、スーツに付いているであろう砂をパタパタと払い落とした。
 そこから家に着くまでの記憶はない。ただ、あの人が言ったことが気になりすぎたのだ。家に入り、スーツを脱ぐ。僕は右のポケットが少し膨らんでいることに気がついた。何も考えずにそれを取り出す。引き抜いた手に収まっていたのは、銘柄も分からないタバコの箱。無意識のうちにコンビニかどこかでそれを買っていたようだ。真っ先に開封し、タバコを1本取り出した。右手にライターを左手にそれを持ってベランダに出る。空はすっかり紺色に染まっていて、ちらちらと見える星屑と太陽の光を浴びながら輝き続ける月の宝石箱になっていた。タバコを口に咥えて先端に火をつける。あの人の真似で息を吸うと、すぐさま煙が僕の肺を襲う。思わず咳き込んでしまった。あんなに若いのに、なに食わぬ顔をしてこれを味わっていたのかと思うと少し尊敬する。吐き出した煙が僕の顔を撫でて秋の夜空に溶けていった。あわよくば、ハイになりたい。タバコの先から灰が自然と落下する。それを見て、いても立ってもいられなくて。
 
 僕はベランダから身を投げた。寂れた街で錆れたアパートで起こったそれに誰が興味を持つだろうか。4階から地面に向けての人生初の飛行。走馬灯なんて言うのは見なかった。結局あの人が言った灰の事が気になりすぎていたから。その答えも分からなかったけど。右手にタバコを。左手にライターを持ちながら地面に向かって飛行する。これでようやくハイになれる。地面にぶちまけられる僕は灰の様な美しいものにはなれないが。あの時あの人を引き留めておけば、この思いもなくハイになれたのだろうか。


 「まぁ、いっか。」


 体が地面と接触する。薄れゆく視界の中で最後に見たのは、利き手に持った長さが半分以下になったタバコ。どこからか溢れ出る液体に触れて。太陽のような灯火は消えた。まるで、僕が好きな時間が始まったかのように。

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