「普通」と「ハンディキャップ」との狭間で

 発達障害には特性がある。ADHDは「注意欠如・多動ー衝動性」、ASDは
「対人関係の不器用さと一つのことへの拘りの強さ」がそれぞれの特徴だとされている。
 
 私が受けた発達検査から、ADHDは片付けが苦手、衝動買い、過食、時間を守ることが苦手などということ、もう一つの軽いASDは、人との付き合い
方に対する不器用さ、切り替え下手という結果が出た。
 ADHDに関しては、自覚はあったので「ああ、やっぱりなー」という気持ちであり、一方軽いASDの方も言われてみればそうだ、そうだという感じで受け止めている。

 この検査結果は私だけではなく、私の支援者さん達も知るところである。
正直、「知らせてよかったのだろうか?」という疑問がよぎることもある。
 何故かというと、支援者さんの考えと、私の考えが合わないときがあると、支援者さんは私の考えや行動を「衝動性からくるもの」と言う。
それに対して、私は「どうして、今まで『普通』にしてきたことが、「衝動性になるわけ?」と思ってしまう。多分、それは私が無意識のうちにやってきたことが、「衝動性」だったとしても、自分としては「私の考えでやってきたこと。」だ。
 
 支援者さんとの付き合いは退院してきてからだから、7ヶ月ほどになる。私と接する時間が長ければ、私の人となりも見えてきて当然である。しかし、私の考えや価値観などは理解しきれないだろう。支援者と当事者という関係であるが、あくまでも他人同士である。相性もあるだろうし、お互いが分からなくて当たり前だ。今の支援者とは、相性が合うかというと正直、分からない。さすがに、「衝動性」と言われてしまうことだけが悔しいというか、ムッとする。自分の短所を指摘されて腹が立つのと同じだ。
 私も正直に「なんでも衝動性と言わないでほしい。」と伝えればいいのだが、伝えてしまうと角がたってしまうのも面倒なので「ああ、そうですか。」としか伝えてない。自分の本音を押し殺している。
それを伝えられないと言うことは、相手に対して信頼がないということだと思うし、「どうせ分かってもらえない。」というひねくれた考えもある。
一番私が恐れているのは、もし、自分の本音を言って、相手を不機嫌にさせてしまったら、ここで冷遇されてしまうかもしれない、という恐れだ。
大人になって発達障害が明らかになってしまった人間の「弱さ」故の恐れだと思う。
 私の周りにはにはもっと重い障害を抱えている人たちも暮らしている。その方達は、精神的な不安定さ、自分で自分のことをやるのが困難な方々だ。
そういう人たちとの付き合いが大変なのも本音だ。支援者の手が厚くなるのはそういう方々だ。つまり、「優しく接している。」のである。

 私のように、発達障害が分かる前は、小学校から大学まで「普通」に学生生活を送り、紆余曲折はあったものの「普通」に社会人をやってきた。
そして、大人になってふとしたきっかけで発達障害が分かり、「ハンディキャップを持った人間」の仲間入りをしてしまった。いきなり、「普通」というカテゴリーから、「ハンディキャップ」という枠に入ったのだ。
だから、「本音を言っても理解できるだろう。」ということになってしまうのか。私は、自分自身が「ハンディキャップ」と「普通」の中間にいて、「どちらでもない。」と思っている。まだ、この「ハンディキャップ」という世界に慣れないでいる。「普通」の方が幸せだったのかな?と思うことがある。前の記事で「ハンディには囚われない。」とは書いたけど、社会に戻っても「ハンディキャップ」という枠組みで生きなければならないのだろう。

 今までの私の「普通」って一体なんだったのだろう。と思う。「ハンディキャップ」の世界になんて入りたくない。もっとできたら、「普通」の世界で頑張ってみたい。活躍してみたい。私には発達障害があるけれど、「普通」の世界で他の人と同じように自由に生きていきたい。だが、「普通」の中に入ってしまうと、今度はできないこと、苦手なことに焦点が当たり、生き辛くなってしまう。これからどうしたらいいのだろうか。

 「普通」、「ハンディキャップ」に囚われすぎているのは実は私自身なのかもしれない。やはり、「ハンディに囚われない。」を思い出して、今まで生かされてきた自分に自信を持って、生きていこう。つまづいても、止まってもまた歩いて行けばいい。希望を持ち続けていこう。

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?