囚人のジョークと天丼

囚人のジョークと天丼

アメリカの囚人が長々とジョークを話すと看守に罰せられるということで、ジョークに番号を振ってその番号を伝え合うことで笑いを取る、という話がある。情報の圧縮だ。

お笑い芸人の一発ギャグなんかも情報の圧縮だろう。なかやまきんに君の筋肉を見せて笑いを取る、というのも彼がトレーニングにかけてきた膨大な時間と左右の大胸筋を自由にコントロールできるという気の遠くなるような努力が垣間見えるからこそ面白いのだろう。

エピソードが長ければ長く情報が圧縮されていればいるほど面白い。何かに気を取られて数を数え間違えた時に「時そばじゃん」と言えば面白エピソードになる。「時そば」という三文字に情報が圧縮されている。はっつぁん、今なんどきだい?

寿限無じゃん、といえば無茶苦茶長くてしょうもない名前で不都合が起こっていることを表現できるし、エピソードに関連しているものを短縮すると笑いに繋がるのかもしれない。

うんこ、オシッコ、おなら、これらが面白いのもそれにまつわる失敗エピソードを皆が何かしら持っていて、その単語を言うだけでそのエピソードが圧縮されて無意識化で脳内再生されるからだと思う。大腿四頭筋、とだけ言われて面白く感じる人は、まぁいなくはないと思うが大腿四頭筋にまつわる失敗エピソードをもっている人だけだと思う。

お笑いにおける天丼、というのも情報の圧縮と再生をその場で繰り返していく行為だ。熱湯コマーシャルは一回一回は個人がもちろん熱いお湯で失敗したことがある、という体験に基づいているから面白いので初めて見た人も面白いハズだが、数を重ねて見ていくと「あの人前にも失敗していたなー、でもまた失敗するんだ」という個人の中での情報の複雑化が起こる。これは囚人の番号で言い合うジョークと非常に似ている。

では究極の失敗は何か、ここからは思想が強くなるが産まれることと死ぬことだと思う。まぁ産まれたくて産まれる人もいないし死にたくて死ぬ人も少ないと思うが、産まれることも死ぬことも一回こっきりなので、天丼として笑いを取るためのエピソードとしては実は適切ではない。
ただ、産まれる、死ぬことに関して我々が当事者として参加していることがある。SNSだ。人によってはSNSのアカウントを作っては消し、作っては消しを繰り返す。これは産まれては死に産まれては死にを繰り返すいわば現世の中でできる輪廻転生だ。

垢消し、っていうのはもっと色々なSNSがカジュアルに乱立して個人が複数アカウントを持ったり消したりすることが当たり前の世の中になったら笑いになるかもしれない。

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