ガラス瓶の冬

「映画を撮りたい」という話と「文章が書けない」という話と「博物学的創作論」

最近は敢えて毎日映画を観る時間を作っています。あまり映画というコンテンツに触れてきた人間ではないので、名前を知っている見た事がない作品を片っ端から観ています。
あと、好きなクリエイターさんが好きだと言った監督の作品も観ています。
20秒くらいのただエモいだけの思わせぶりな映像を撮ってみたくなりました。

ものづくりに完全なオリジナルはなく、すでに誰かがやっている作品の派生であり自分の作品はただただ細分化された枝の一部を伸ばしていくに過ぎない。
光に向かって枝を伸ばしていく作業。
ひたすら連想ゲームを続けた先には何があるのか
オリジナルとは全く別物だが、いくつかを介して隣り合っている。

ある映画の中のセリフにこういうものがある
「古本の山は一冊の本なんだ」と
誰が何かに影響されて生み出す限りそれは全て地続きの作品。
曲に影響されて立体の創作物を作ったならそれはミッシングリンクが埋まった状態。
そうして全ての創作物、作品は繋がっていると言える。

稀に全く違う方向から全く同じ仕組みの作品が生まれてくるのは凄く面白くないですか?

他者の存在が無いと何も生み出せないんだなと実感した冬。



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