私の反出生主義

 Twitterで見かけた、ジェットコースターのたとえ。
「生まれるというのは、勝手にジェットコースターに乗せられているような感じ。止まるまで怖いし、無理やり降りたら痛そう」
これは、反出生主義を表すときによく使われるたとえのようだ。私はこれに共感した。

 私は、とても恵まれていると思う。幸せな家庭に生まれた。家族は自分の考えを人に強制するような人たちではない。温かい家庭。この家に生まれてよかったと思う。周りの人は大体いい人ばかりだ。
 けれど、それはそれとして、私は生まれてきたくはなかった。この先も生きていかなければならないことを考えると、憂鬱で仕方がない。甘えているという人もいるのかもしれない。必死で生きていないから、そう考えるのだと。そうなのかもしれない。けれど、それの何が悪いというのだろう。何故必死で生きないといけないのか。ただでさえ苦しいのに。

 成人式の日、私は静かに絶望していた。まだ、二十年しか生きていないのだ。人生が八十年だとして、あと六十年生きなければならない。これまでの三倍の時間を生きなければならないのだ。祝福の雰囲気の中、私の思考だけが浮いていた。何度か書かされた、20歳の自分への手紙を、私は躊躇なく破って捨てた。気分が悪かった。式の会場を後にしたのは、私が一番早かったように思う。

 私は誕生日を祝われるのが苦手だ。祝ってくれなくていい。サプライズなんてもってのほかだ。何故かと問われると、上手く答えられない。むしろ、何故みんなは祝ってほしいのだろうとさえ思う。「誕生日だから祝って」と人に言われたことがある。なんで?と私は思った。話のネタが尽きたのか?
 プレゼントはもらう。貰えるものは貰う主義だからだ。友人が誕生日を祝ってほしいタイプなら、「おめでとう」の一言くらいはメッセージを送る。でも、私には送ってくれなくていい。

 もちろん、これは私の考えであって、人の行動を制限するものではない。誕生日を祝うのが好きな人が友人にいたら、祝ってもらう。「おめでとう」と言われれば、「ありがとう」と返す。母親に対してもそうだ。ただ、私自身は誕生日をケーキを食べてよい日ぐらいにしか思っていない。生まれない方が良かったとまでは言わないが、生まれて良かったとも思わない。「へぇ、今日誕生日なんだ。年取ったじゃん」ぐらいの無関心さでいい。人に誕生日を聞かれたら、適当な日を答えそうになる。一度それで困ったことがあるので、実際にはしないのだけれど。

 思うに、誕生日はちょうどいいきっかけにすぎない。ちょっと仲良くなりたい相手に、「あ、今日誕生日なんですか!おめでとうございます~」だとか「今日誕生日でしたよね?はい、これよかったら」などと言ってうまいこと懐に入り込む。もしくは、ケーキを食べるための口実。命日と一緒。命日はその人を思い出すきっかけ。祝うようなことじゃない。誕生日は年が一つ増えるだけの日。ただ、それだけのこと。

 この考えをある友人に話したところ、「反出生主義みたいなこと?」と聞かれた。正直そこまで考えてはいなかったが、少し調べてみると、それは私の考えによく合うことがわかった。自分の思考にラベルを貼るつもりはなかったのだけれど。

 私は子供を産むつもりはない。一人の命を育てられる気がしないというのが大きい。ただでさえ生きていたくないと思うのに、私は子供を叱れるのだろうか。己から生み出された命を愛せるだろうか。
 残りは、生まれてくることが幸せだとは思えないこと。反出生主義。私が与えられる、精一杯の子供への愛。

 一応明記しておくが、これは子供を産む人を咎めるものではない。人生が楽しくて、子供と幸せな家庭を作りたい。それはその人の人生だ。とても素敵なことだと思う。私も、人生を心から楽しめるようになりたい。そこまでのエネルギーがないので、しばらくは無理だろうけれど。ただ、私がその考えを尊重するように、人生が楽しい人も、人生が楽しい人ばかりではないことを頭の片隅に置いておいてほしい。それはそれとして、自分の人生は楽しめばいい。楽しんでほしい。一番ダメなのは、自分の主張を強制することだ。主張の内容は関係ない。

 まとめると、生きたくはないけれど死ぬのも面倒!しょうがないから、なんとなく生きていってやろう、という話。

 ここまで読んでくださってありがとうございました。またいつか。

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