パンドラの箱

夏の日差しが学ランの黒色に吸収され、着ている制服をチリチリと熱していく。夏の暑さに舌打ちをしながら、長いゆるりとした坂道を上っていくと、青い扉に白い壁が日差しできらきら輝いて見える、清潔感のある一軒家に辿り着いた。庭を抜けて扉に辿り着くと、黒板のついた看板が立てかけてあり、そこには『あなたの記憶を思い出したり、消したりしませんか?料金は5000円から応相談。“バイト募集中!!”』と書かれており、料金表記などは白いチョークで書かれているが、相当切羽詰まっているのか、バイト募集の表記だけは赤と白と黄色の三色で書かれかなり目立っていた。ドアノブに手を掛け、扉を開けると、鈴の音が部屋中に響き、客が入ってきたことを知らせてくれる。入ってすぐカウンターにはレジが置いてあり、右手には透明なガラス製の机とそれを挟むように青いソファが置かれている。カウンターのさらに奥には、階段と閉まっている扉があった。中に入り扉が閉まるときも、鈴の音がなるがだれも出てくる気配がないため「すみません」と奥まで聞こえるように声を出したが、特に反応がなかったためもう一度声を掛けようとしたら、階段から誰かが降りてくる気配がした。足音がする方を見ると、白髪に緑色の目で背の高い男が降りてきた。男はTシャツの中に手を入れ、腹を掻き、欠伸をしていたがどこか色気のある妙な雰囲気を纏った男性で、男なのに心臓の動悸が高まり、何となく身構えてしまう。


「すみません、お昼食べたら寝ちゃってて・・・」


話し始めると先程纏っていた色気も、妙な雰囲気もすべてどこかに飛び、背の高いただのイケメンになってしまった。それでもイケメンには変わらずどこか身構えてしまう。


「どうぞ、おかけになって下さい。何がいいですか?お茶、コーヒー、紅茶・・・最近、チョコレートミルクって言うものすごい甘い飲み物もありますよ」

「いえ、大丈夫です。あの・・・ここでは、記憶を消して貰えるんですよね?」

「はい。何の記憶を消したいんでしょうか?」

「・・・・・・家族の、記憶を」


表情と、言葉に詰まったことにより何かを察したのか男の顔が神妙になると、男は机に肘を置き、手を差しだしそこに「手を出して下さい」と言われた。困惑しながら男の手のひらに自身の手のひらを重ね合わせる。


「今からあなたの記憶を見ます。そのことは他言しません。この状態で、理由を聞かせて下さい」

「・・・はい」



朝、一番遅くに起きてきて洗面所で顔を洗い、歯を磨く。妹と母は、ご飯を食べてから歯を磨くが、俺は朝一番に歯を磨かないと朝ごはんを食べたくない派だ。口の中がネバネバした状態だと気持ち悪くてご飯が飲み込めない。


「もう、お兄ちゃん、早くしてよ」


妹が寝間着姿で急かしてくる。母も妹も朝出かけるときにいつも慌ただしくしながら色々とやっている。何をやっているのかわからないけれど、とにかく何か長々と準備をして、女って生き物は何にこんなに時間を掛けてるんだといつもあきれてしまう。洗面所を出て、母が用意してくれた朝食を食べていると、「じゃあ、行ってくるからぁ」と母親の声が聞こえ、口にパンを詰め込んでいたので俺は手を振り、妹は洗面所から顔を出して、未だに髪をくしでときながら「行ってらっしゃい」と返事をしていた。食べた皿を台所で洗い、学校に行くために制服に着替えはじめる。最近だとあまり見かけない、学ランに身を包み、入れ替えが面倒くさいため教科書をすべて詰め込んだバッグに弁当を押し入れ、玄関で妹に「いってくる」と伝え扉を開け外に出ると、雨上がりで日差しが強かった。いつも通りの日常、そのはずだった。


違ったのは前日欠席してしまったこと。珍しく風邪を引いてしまい、学校を休んでおり、ちょうどその日、席替えが行われ、自分の席が違う人の席になっていたことを知らなかった。だれもいない教室に入り、机の中を手で探ると謎の箱があった。休んでいる間に何か学校でもらったのかと中身を見てしまい、それをこの席の主に見られてしまったことは、本当に不幸な出来事だったと思う。中身は覚えていない。その日から、いじめが始まった。5,6人の男女に囲まれ、殴られ、蹴られ、尊厳を踏みにじられる。覚えてすらいない箱の中身のために。ただ、自分だけが傷つくのは耐えられた。高校二年の6月の終わり、一年もせずクラスは変わり、こいつらも俺のことを忘れるだろうと耐えられた。


母と妹には気付かれないようにしていたが、俺よりも早く帰る妹には制服が汚れていたり、なぜか体操服で帰ってきたりしていて、何かしら異変に気付いていたかもしれない。ある日、妹が珍しく一緒に散歩に出かけようと、外に連れ出された。夏休みも終わり、もうすぐ秋だというのに未だに蝉の鳴く声がしていた。近くにある公園を通りがかったとき、「お兄ちゃん、もう大丈夫だよ」と急に言う妹に、「何が?」と聞き返しても妹はただ笑うだけで何も教えてはくれなかった。


その日以降、いじめはなくなった。俺はいじめがなくなったことに喜んで、なぜいじめがなくなったのかは考えていなかった。それからしばらくして妹の様子がおかしくなった。学校から連絡があり、無断欠席したり、部屋に閉じこもって出てこなくなったり、どんどん暗くなっていく妹に俺も母もどうすればいいのか分からず、ただ妹が何か話してくれるのを待つしかなかった。ある日、学校に行く前に妹の部屋の前で、いつものように「いってくるから」と声を掛けると中から、「お兄ちゃん、ごめんね」と小さく返事をしてくれた。だが、何を返していいか分からず、黙って学校に行ってしまった。妹とはこれ以降話が出来なくなってしまった。最初に発見したのは母だった、様子のおかしい妹を気に掛け、仕事を早めに切り上げており、その日も定時で仕事を終え、妹の扉の前で話をしようとしたが、妹の返事がなく扉を開けると、妹は首をつって自殺していた。妹のおなかの中には子供がいたらしく、机の上には『お母さん、お兄ちゃん、悪い子でごめんなさい』と書かれたメモが残されていた。


妹が亡くなってから毎日が空虚に思え学校に行ってもいつの間にか授業がすべて終わっていた。妹が亡くなってから10日がたって、いじめてた奴の一人が妹について聞いてきた。こんなことをする奴でも人の心があるのだと思ったが、妹について話した友達は高校にはおらず、妹について知っているものは一人もいなかった。なんだか嫌な予感がして彼らの後をつけていくと、校舎裏でいじめてた奴らが集まり、会話をしているのが聞こえてきた。


「いやぁ~、まじで妊娠したとき焦ったわ」

「うける、なにしてんだよ」

「ちゃんとゴムつけないとだめですよぉ~って、保険のばばあも言ってたろ」

「うぜぇ~」

「まっ、死んでくれたし、遺書にも何も書いてないみたいだし、一件落着だな」


最悪の気分だった。腹の中で、ドロドロの汚く黒い何かと、熱々に熱された油とが混ぜ合わされはじけ飛ぶような感覚。そいつらに向かって拳を振り上げ殴りかかったが、相手は5人いて、当然やりかえされて終わった。腹の虫が治まらず、どうしてやろうかと考え、意味もなく走り回ったら夜遅くなり、帰ると母親が泣きながら抱きしめ、心配したと震えていた。母には妹の死の真相を話すことは出来なかった。


母は見るからに衰弱して、どんどん痩せていた。そんな母に楽させてやりたく、風呂掃除に洗濯、部屋中を掃除して、夕飯を作り、肩もみもした。とにかく母に元気になってもらいたい一心で家事をしていた。ある日、母よりも早起きして弁当と朝御飯を作り待機していると、母は笑いながら頭をなで褒めてくれた。恥ずかしくてすぐに手を払いのけたが、それでも、うれしくこれで元気になると喜んでいた。しかし、母は食事の最中トイレに行く、それは2度3度と、4度目のとき様子のおかしい母を気にしてトイレの扉の前に行くと、中から吐瀉物を吐き出す母の声が聞こえてきた。その音を聞いて固まっていると、母が出てきて目が合ってしまった。母はすぐに俺を抱きしめ「ごめんね、おいしいけどね、お母さん、食事を受け付けなくて、ごめんね、ごめんね」と何度も謝罪を繰り返す。ありがとうと言って笑ってほしかったのに、母をただ泣かせることしか出来なかった。お弁当を手に取り、「これはちゃんと食べるから」と言った母は、もういない。心身共に疲弊しきり、階段から落ち頭を強く打って死亡した。



「復讐をしたいんです。何もしてない母と妹が苦しんで、あいつらが生きていることは許せない!でも、夢を見るんです。あいつらに復讐しようとすると、母と妹が俺のこと抱きしめて止めてくれる夢。・・・復讐をすれば、母と妹を汚してしまうみたいで・・・だから、記憶を消してあいつらに復讐すれば、母と妹を汚さなくてすむ。記憶を消しても、この復讐心は消えたりしないですよね・・・」


最近はずっと、母と妹の夢ばかりを見る。それはいつも同じ夢、復讐しようとする俺を母と妹が優しく抱きしめて、ただただ背中をさすってくれる夢。その夢を見て目が覚めると、だれもいない部屋で、一人さみしく肩を抱いて涙を流し寝ている自分がいる。もう、自分の人生に執着はない。あるのはただ、復讐したいという心だけだった。


「結論から言うと、あなたの復讐心は消えます。あなたのその心は、母親と妹を思う気持ちからです。それに、仮に消えなかったとしても、私は本当の意味で記憶を消せるわけではありません」

「・・・えっ?」

「記憶を消すのではなく、どこかに隠すというのが正解です。ほとんどの場合見つかりませんが、それでもあなたの目的には沿ってないと思います。もしそれでも・・・」


彼は「もしそれでも消したいのなら、あなたの家族との思い出の中で一番のものを思い出して下さい」そう言って、考えはじめると部屋の情景が変わっていき、俺の住んでいた部屋に変わる。目の前には、楽しそうな母と妹がいた。この日のことは覚えている、クリスマスの夜でいつもは忙しい母もこの日は一日休みで、家族全員でお出かけをする日だ。俺も妹も中学生と高校生で親と出かけるのは恥ずかしい時期なのに、ケンタッキーが食べられる特別な日で朝からはしゃいでいた。そんなクリスマスの何でもない朝だった。



「素敵なご家族ですね・・・あなたがこのままのぞむのなら、私はこの記憶を消します。私は・・・これはただの私見ですが、私は消したくないですね」

「そんなの、俺だってそうですよ!!でも・・・でも・・・こんなの、あんまりじゃないですか!!どうしろって、いうんですか・・・」


家族の思い出を消すなんて本当は嫌だった、家族の思い出はもう、俺しか持っていないから。でも、それではあいつらを残して、のうのうと生きているあいつらに何もせず、黙って生きろと?あまりにも母と妹が浮かばれない、こんな理不尽到底受け入れられない。


「うちでバイトしませんか?」

「・・・え?」

「今、住み込みでバイトを募集しているんです」

「それっは・・・」

「今すぐ答えを出す必要はないと思うんです。もし家族の記憶を消したいとあなたが心の底から思ったのなら、そのときは協力します。でも、それまではここで働きませんか?」

「・・・」

「お名前、聞きそびれていましたね」

「・・・笠羽健斗」

「改めて、はじめまして、健斗くん。私の名前は、高橋来按。よろしく」

「・・・よろしくお願いします」


来按と名乗る記憶を見れる能力を持った青年に、ほぼ強制的にここで働かされることとなった。記憶屋“パンドラ”、今日も思い出したい記憶、消してしまいたい過去、隠したいトラウマを抱えた人たちがやってくる。青い扉についた鈴の音が、彼らが来た合図だ。

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