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日本サッカーメキシコシティ五輪で銅メダル -予選リーグ-

画像は左から八重樫茂生、渡辺正、横山謙三、宮本征勝各氏で、横山のみ健在、他3人は故人です。

1968年メキシコシティ五輪本大会に出場した16か国は次の通りである。A組ギニア、コロンビア、フランス、メキシコ、B組スペイン、ナイジェリア、日本、ブラジル、C組イスラエル、エルサルバドル、ガーナ、ハンガリー、D組グアテマラ、タイ、チェコスロバキア、ブルガリア。やはりプロサッカーが盛んな西欧諸国の多くは出場して(できて)いない。予選リーグはA組とB組はメキシコシティ及びプエブラで、C組とD組はグアダラハラ及びレオンで行われた。いずれも中1日でA組とC組は10月13, 15, 17日、B組とD組は10月14, 16, 18日に試合があった。今はサッカー競技は開会式の前に始められるが、当時はそうではなかったのだ。日本が14日に第1戦を戦うプエブラは12日に開会式が行なわれるメキシコシティから130kmほど離れており、選手たちの総意で開会式には参加せずに合宿を続けたという。
日本は第1戦で釜本邦茂のハットトリックにより、ナイジェリアを3-1で下す。釜本は左右の足と頭で1点ずつ決めたと読んだ記憶があるが、映像が記憶に残っているのは3点目の左足の得点だ。ペナルティエリアの左角から5~10m離れた所でFKを得て、相手が守備陣形を整える前に八重樫茂生が縦にグラウンダーのパス。走りこんだ杉山隆一がゴールライン際から左足でグラウンダーのクロスを入れ、ペナルティスポット辺りで待ち構えていた釜本が左足でゴール左隅に流し込んだ。ジーコが「シュートはゴールに優しくパスするんだ。」と言ったそうだが、それを体現するかのようなシュートだったし、杉山も釜本もワンタッチだったと思う。日本の司令塔だった八重樫は、残念ながらこの試合中に負傷退場し、その後は準決勝で途中出場しただけだ。
16日の第2戦はブラジルである。日本は開始9分で早くも失点する。ハイボールが太陽と重なってGKの横山謙三が目測を誤ったという不運な失点だったと記憶している。日本はほぼ互角に反撃するが、得点は奪えない。後半も半分ほど(半分以上?)過ぎて、日本は右ウイングの松本育夫に代えて渡辺正を投入する。同じウインガーであるが、テクニシャンの松本に対して渡辺はちょっと泥臭いイメージだ。監督の長沼健はこの交代を早くから考えていたが決断できずにいたところ、スタジアムで観戦していたデットマール・クラマー元コーチがベンチに伝令を飛ばして渡辺の投入を示唆したという。ようやく投入された渡辺が後半38分に同点ゴールを決める。左ウイングの杉山がゴールラインまで距離がある左サイドで縦に行く姿勢から切り返して右足で浮き球のクロス。これをゴール前やや右の釜本が頭で地面に優しく落とし、渡辺が走りこんで右足ダイレクトのボレーシュートを決めた。釜本のお手本のようなポストプレーと渡辺の嗅覚が光った。クロスボール→頭で落とす→ダイレクトシュートのパターンは、後年アジアのどこかとの試合で右サイドハーフウェイライン付近で中村俊輔が長いクロス、なぜかペナルティエリア手前の左寄りに張っていた田中マルクス闘莉王が頭で落とし、走りこんだ大久保嘉人が右足で左隅に結構距離のあるグラウンダーのシュートを決めたというのがあった。渡辺の得点はこれをずっとコンパクトにしてクロスとポストプレーの左右を入れ替えたようなゴールだった。これで日本はブラジルと1-1の引き分けに持ち込む。実は私はこの試合を0-1の場面から1-1に追い付くまでテレビで見た。朝学校に行くまでの数十分である。私は学校の比較的近くに住んでいたので、ぎりぎりまで見ることが出来た。教室に飛び込むとサッカー好きの友人に一言「追い付いたぞ!」「本当か?」「渡辺が入れた」と大興奮であった。よく考えると、試合開始は現地時間正午で時差は15時間だ。試合が終わる14時は日本では朝5時であり、テレビ中継は数時間遅れだったのだ。でも五輪期間中にマイナースポーツのサッカーの結果が-しかも早朝に-速報されるはずもなく、私は生中継である事を疑いもしなかったのだ。

18日の第3戦の相手はスペインである。場所はメキシコシティ。第2戦までの成績はスペインが2勝4得点無失点、日本が1勝1引分け4得点2失点、ブラジルが1敗1引分け1得点2失点、ナイジェリアが2敗1得点6失点で日本は2位である。日本のスタッフはこのまま2位通過を狙った。準々決勝は1位通過ならA組2位とプエブラで、2位通過ならA組1位とメキシコシティで当たる。A組は17日に全日程を終えフランスが1位、メキシコが2位でベスト8に進出を決めていた。日本は地元メキシコとの対戦を避けたかったのだ。この年の3月日本はメキシコの五輪代表チームとメキシコシティで親善試合を行い0-4で大敗している。五輪本番となればアウェイ感は更に増すだろう。第2戦でメキシコを4-1で破ったフランスであるが、コロンビアに敗れて、最終成績はメキシコと同じ2勝1敗、得失点差で首位となっており、日本としてはフランスの方が戦い易いとふんだのだ。更に準決勝に進んだ場合A組2位とB組1位の勝者はメキシコシティから500km以上、プエブラからは600km以上離れたグアダラハラ(当時も航空便は有ったとは思うが)に移動せねばならない。メキシコは予選リーグを3試合ともメキシコシティで戦ったし、1位通過を疑っていなかったのだろう。A組1位、即ちB組2位が準々決勝から決勝までずっとメキシコシティで戦う計画にしていたのである。B組、D組からの進出チームは予選から準決勝までずっと中1日での試合を強いられる。驚く事に前回までは交代は負傷時のみに認められており、今大会で初めて自由に2名を交代できるようになった。それでも2名である。疲労回復を考えたら、長距離移動は避けたい。
さて、2位通過するにはどうしたらよいか。スペインに勝ってしまうと1位だ。引分けなら文句なく2位だ。引分け狙いが失敗して負けたらどうなるか。日本が1点差負けでブラジルがナイジェリアに1点差勝利なら日本は2位だ。しかしブラジルが大差で勝利した場合は、日本は負けると3位転落の可能性がある。試合は2試合とも同時刻に行なわれる。以上の状況や狙いをスタッフがどこまで選手に伝え指示を出していたかは不明だが、スタッフは気をもんでいた事だろう。日本はスコアレスでハーフタイムを迎える。スタッフのみに伝えられたニュースは、ナイジェリアが3-0でブラジルを押さえて前半を終えたというものだった。これでスタッフは安心した。引分け狙いで良い。間違って敗れても2位は動かないだろう。後半開始後間もなく、日本は宮本輝紀に代えて湯口栄蔵を入れ、引分け狙いの指示を伝えさせた。ところが、ブラジルは後半20分までに3点を返してしまう。この経過がどのように日本ベンチに伝わったか不明だが、直感的にはブラジルが大差をつけて大逆転しそうな勢いである。幸い日本の試合運びは危なげなかった。敗戦の恐れが低そうだと思う間もなく、釜本のGKとの一対一からのループシュートがクロスバーを叩く。長沼は内心ひやひやした。もっと言えば憤慨したという。事実、釜本は「クロスバーに当てるのが上手でしょ。」と言わんばかりにベンチに向かってぺろりと舌を出したという。更に終了間際には杉山が左45度から痛烈なミドルシュートを放ち、これが右ポストを叩いている。杉山の後日談は見聞していないが、少なくとも日本の勝利を願っていた少年時代の私たちにとっては、まじで惜しいシュートの連続だった。結果的に日本はスペインとスコアレスドロー、ブラジルはナイジェリアと3-3のドローで、日本は無事に目論見通り2位通過したのである。それも2018年ロシアW杯の日本-ポーランド戦や過去何回かのなでしこジャパンの試合のように「見ちゃいられない、出来レース」ではなく、好ゲームだったと思う。後年、長沼の回想録を読むまでは、私は日本が2位通過を目指していた事は知らなかった。その後もスペインがこの第3戦に何か手加減すべき事情があった事を示すような資料に出くわした事はない。1968年10月18日は金曜だった。日本は土曜日の朝である。当時の日本は土曜日も学校があったはずだが、釜本と杉山のシュートはどういう訳か見ている。やはり通学前だったのだろうか。子供の私にとっては日本と欧州の強豪が堂々と戦って、日本が惜しくも勝利を逃した試合だったのである。

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