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サッカーメキシコシティ五輪のアジア予選

画像は左から故長沼健、杉山隆一、釜本邦茂、故宮本輝紀各氏です。

1968年メキシコシティ五輪のサッカーは16か国で争われ、アジアからは日本とタイとイスラエルが出場している。イスラエルは今は欧州の協会に属している(今オーストラリアがアジアの協会に属しているように)ようだが、当時はアジアだった。日本はフィリピン、台湾、レバノン、韓国、南ベトナムとのアジア予選を1967年9月から10月にかけて東京で戦っている。ホーム&アウェイでもなく中立国開催でもない。1964年東京五輪の後1967年9月までに五輪アジア予選らしき試合の記録は無い。つまりアジアの18か国前後を3つのグループに分けて総当たりの一発勝負で決めたのだろう。おおらかな時代だった。レバノンが入っているから地域で分けたのでもなさそうだ。
日本は初戦でフィリピン相手に15-0で圧勝する。釜本邦茂が6点、宮本輝紀が4点、杉山隆一が2点など、前半9点、後半6点とやりたい放題だった。次の台湾戦も釜本が3点取り4-0の楽勝だった。3試合目のレバノン戦は先制を許すが前半の内に追い付き3-1で逆転した。続いての日韓戦は3戦全勝同士のいわば天王山だった。日本は宮本と杉山のゴールで2-0で折り返すが、後半6分と24分に失点を喫する。その1分後に釜本のゴールで突き放すが、その2分後にまた追い付かれる。終了間際には韓国のミドルシュートがクロスバーを叩いて跳ね返るが、結局3-3の引き分けで終わる。監督の長沼健はその晩韓国のシュートがクロスバーを叩いたバシッという音がこだまして眠れず、翌日試合会場(国立競技場)のゴール下で祈りを捧げたという。今年になって何かで読んだが、このミドルシュートを放った韓国選手は「終了間際でとにかく時計が気になっていた。あと一歩ドリブルしていたら入ったかもしれないと思うと後悔が残る。」と述懐したそうだ。
最終戦の韓国の相手はフィリピンである。韓国のそれまでの試合記録は不明だが、監督は「18-0で勝って出場権を獲得する。」と豪語していた。このコメントに奮起したフィリピンは頑張って(確か)0-6と善戦(?)した。一方日本の南ベトナムとの最終戦は楽ではなかった。不動の左ウィングの杉山が肩を負傷したが、バンデージで固定して出場を続けた。当時のレギュレーションは不明だが、日本はフィリピン戦で2人、レバノン戦と南ベトナム戦で各1人しか交代させていない。南ベトナム戦の交代は杉山ではない。そして後半、その杉山が挙げたゴールを守って1-0で辛勝する。おぼろげな記憶ではルーズボールに相手DFかGKより先に追い付いて倒れこみながらのシュートだったと思う。もし引き分けだったら勝ち点で韓国に及ばなかったわけであり、杉山の闘志あふれるプレーが賞賛された。

晴れて出場権を獲得した後も精力的に強化試合が組まれ、本大会までに各国のクラブチーム(前回述べたソ連中央陸軍、デュクラ・プラハ、アーセナルを含む)や五輪代表チームと国内外で23試合も戦っている。
五輪本大会のメンバー登録は19人までだったが、ベンチ入りが監督・コーチを含めて20人までと制限されており、長沼はコーチの岡野俊一郎をベンチから外すわけにはいかず、選手を18人とした。1年前のアジア予選は選手20人で、4年前の東京五輪は選手19人だったが、東京五輪出場者の内16人が3年後のアジア予選に出場し、その内14人がメキシコの本大会に出場した。またアジア予選メンバーのうち4人が落選し、2人新メンバーが加わり、本大会に選ばれたのは次のメンバーとなった。( )は本大会時の年齢を示す。浜崎昌弘(28)、富沢清司(24)、宮本輝紀(27)、渡辺正(32)以上4名八幡製鉄、横山謙三(25)、片山洋(28)、森孝慈(24)、杉山隆一(27)以上4名三菱重工、小城得達(25)、桑原楽之(25)、松本育夫(26)以上3名東洋工業、宮本征勝(30)、鎌田光夫(30)、八重樫茂生(35)以上3名古河電工、鈴木良三(29)、山口芳忠(24)以上2名日立製作所、釜本邦茂(24)、湯口栄蔵(23)以上2名ヤンマーディーゼル。日本リーグの6チームから集められた平均年齢27歳のチームとなった。この中で宮本輝紀について触れておきたい。当時から業師(わざし)と異名を取っていた。自分でもシュートを決めるが、今で言うキラーパスが得意で、後年(宮本が59歳で亡くなった時だったか)長沼はキラーパスに言及し、「中田英よりすごかった。今の時代だったら間違いなく欧州で活躍していたはずだ」と回想している。まあ高齢のファンがマラドーナやジダンやメッシを見ても「ペレの方が上だ」と言うようなものではあるとは思うが、サッカーファンで宮本輝紀を知らなかったらぜひWikipediaを一読して欲しい。

さて、何の大会でも予期せぬ怪我などを考慮して少し多い人数で最終合宿を組み数名が落選となるが、この時は上(カミ)久雄(27、八幡)と木村武夫(21、古河)が落選した。長沼は本人たちには伝えられぬまま公式発表をして心苦しい思いをしていたところ、検見川(千葉県)の合宿所ですれ違った上から「見ました。誰かが抜けなきゃならないのですから仕方ないじゃないですか。」と明るく声をかけられて救われたという。上は4年前の東京五輪にも出場しており、富沢と共に八幡の守備の要であったのだ。日本代表は本大会の前月の1968年9月に国立競技場で日本選抜軍と壮行試合(上記23試合に含む)を行い、オウンゴールと釜本、山口、小城の得点で4-3で辛勝するが、日本選抜は当時日本リーグを席巻していた東洋工業の岡光と二村、また代表に落選した木村が得点を上げている。この試合で日本代表は7人交代させ、代表18人全員がプレーしている。
さあ、メキシコへ

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