見出し画像

世界のサッカー -ペレとマンチェスターユナイテッド-

画像は左からペレ、エウゼビオ、ジョージ・ベスト、ボビー・チャールトン、いずれも故人です。
 
以前のnote“サッカーと私”に“1968年メキシコ五輪の前から歴史を振り返り・・・”と書いたが、まず私が生まれる前、そしてサッカーを知る前から知り始めの頃の世界のサッカーについて書きたい。もちろんWikipediaなど資料に頼るしかない。
まずワールドカップの決勝結果を列記する。( )内は開催国である。
1930年(ウルグアイ)ウルグアイ4 – 2アルゼンチン、1934年(イタリア)イタリア2 – 1(延長)チェコスロバキア、1938年(フランス)イタリア4 – 2ハンガリー、1942年、1946年は戦争の影響で中止、1950年(ブラジル)ウルグアイ2 - 1(決勝リーグ)ブラジル、1954年(スイス)西ドイツ3 – 2ハンガリー、1958年(スウェーデン)ブラジル5 – 2スウェーデン、1962年(チリ)ブラジル3 – 1チェコスロバキア、1966年(イングランド)イングランド4 – 2(延長)西ドイツ、1970年(メキシコ)ブラジル4 – 1イタリア、1974年(西ドイツ)西ドイツ2 – 1オランダ、1978年(アルゼンチン)アルゼンチン3 – 1(延長)オランダ、1982年(スペイン)イタリア3 – 1西ドイツ、1986年アルゼンチン3 – 2西ドイツ、1990年(イタリア)西ドイツ1 – 0アルゼンチン、1994年(米国)ブラジル0 – 0(延長/PK)イタリア、1998年(フランス)フランス3 – 0ブラジル、2002年(韓国・日本)ブラジル2 – 0ドイツ、2006年(ドイツ)イタリア1 - 1(延長/PK)フランス、2010年(南アフリカ)スペイン1 – 0(延長)オランダ、2014年(ブラジル)ドイツ1 – 0(延長)アルゼンチン、2018年(ロシア)フランス4 – 2クロアチア、2022年(カタール)アルゼンチン3 - 3(延長/PK)フランス。
以上22回のうち開催国優勝が6回ある。優勝回数はブラジル5回、西ドイツ/ドイツとイタリアが4回、アルゼンチンが3回など。準優勝は西ドイツ/ドイツが4回、アルゼンチンとオランダが3回などで、優勝経験の無いオランダが3回決勝で涙を呑んでいる事が目を引く。優勝は欧州と南米の国に限られている。開催国を欧州、南米、その他に分類すると優勝国は欧州では欧州10, 南米1、南米では欧州1, 南米4、その他では欧州1, 南米5となる。トータルでは欧州12, 南米10であるが、欧州国の内弁慶ぶりが目立つ。その他細かく見ていくと色々面白いことがわかる。通算の得失点差が最も悪いのがマイナス39点でそれはメキシコと韓国である。地区予選で有力なライバルがいない事の表われであろう。
さて2022年末に亡くなったブラジルの“サッカーの王様”ペレが17歳でワールドカップに出たのは1958年であり、ここでブラジルは開催国スウェーデンを決勝で下して初優勝する。ペレは大活躍し決勝でもボールを相手DFの頭上に浮かせて抜き去りボレーシュートを決めるなど2得点している。この時チーム内で抽選で割り振られた背番号10が後世各国でエースナンバーになったとも言われている。
1962年チリ大会でもブラジルは優勝するが、ペレは予選リーグの第2戦で負傷し、第3戦以降は出場していない。尚、1958年と1962年のブラジルチームには後に代表チームの監督となるザガロがいたが、他にジジ、ババという二人の選手が揃ってレギュラーであり、日本のサッカーファンはにやりとしたことだろう。
ペレは絶頂期の25歳で迎えた1966年イングランド大会でも大会前から怪我を抱え、予選リーグのブルガリア戦とポルトガル戦でラフプレーに遭い、負傷又は負傷退場となりブラジルも予選リーグ敗退となった。これを機にFIFAがレッドカード、イエローカードを導入し、その後の大会から適用したという。イングランド大会ではブラジルの敗退と共に、イタリアを破って決勝トーナメントに進出した北朝鮮も話題となった。アジアにとっては決勝トーナメント進出が初めてである前に勝利自体も初めてであった。予選リーグで敗退したイタリアチームは帰国した空港でファンからトマトを投げつけられたという。さて開催国イングランドと西ドイツの決勝は終了間際に西ドイツが追い付いて2-2で延長に入るが、延長前後半に1点ずつゴールしたイングランドが優勝する。決勝点となった3点目はクロスバーに当たったボールがほぼ真下に落ちてDFがクリアしたのだがゴールと認められ、西ドイツにとって不運な判定となった。(ゴールラインテクノロジーは2014年大会から適用されている。)2点目を除く3得点を上げたジェフ・ハーストは2022年大会でフランスのムバッペに並ばれるまでは、唯一のW杯決勝でハットトリックを達成した選手となった。2022年大会のフランスは準優勝だったから、優勝チームの決勝でのハットトリックは1件のみということになる。もっとも敗戦チームのハットトリックの方が希少価値があるはずで、ムバッペの記録はより長く残るだろうけど。
1970年大会以降は次回以降に振り返る事にする。
 
1968年に東京12チャンネルの三菱ダイヤモンドサッカーが始まった当時、イングランドのマンチェスターユナイテッド(マンU)は(若い人には意味不明と思うが)プロ野球の巨人軍のようであった。即ちチェルシー、トットナム・ホットスパー、ウェストハム、リーズなどはマンUの対戦相手として初めてテレビに出て来るような状態だったと記憶している。当初はリバプール、マンチェスターシティ、アーセナルなどを三菱ダイヤモンドサッカーで見ることは無かったように思う。マンUは1967-1968UEFAチャンピオンズカップ決勝(1968年5月)でエウゼビオを擁するポルトガルのベンフィカ・リスボンを延長の末4-1で下し、同大会を制した初のイングランドのチームとなる。同年のインターコンチネンタルカップではアルゼンチンのエスツディアンテスにアウェイで0-1、ホームで1-1となり世界一は逃すが、マンUは日本のサッカーファンの憧れだったと思う。イングランド代表チームでも攻撃の中核を担うボビー・チャールトンがキャプテンで、スコットランド代表のデニス・ロー、北アイルランド代表のジョージ・ベストを擁する強力な攻撃陣を誇っていた。チャールトンの左足から繰り出されるミドルシュートは“キャノン(大砲)シュート”と恐れられていた。長髪・イケメンのベストはドリブラーで、当時ジョージといえば音楽ファンならビートルズのジョージ・ハリスン、サッカーファンならベストをすぐに連想するほどだっただろう。ベストがGKとの1対1の場面を難なく躱してゴールに流し込む映像は羨望の的だった。GKとの1対1が得意な選手といえば、メッシやストイコビッチを思い浮かべる人が多いと思うが、日本で映像に残っているプレーの中ではベストは草分けと言っても良いのではないか。日本代表の試合でも玉田圭司や大黒将志の得点が思い出されるが、最近はプレーの高速化や戦術的ファウルのせいかあまり1対1の場面は見られず、それが得意な選手も思い浮かばない。ベストは私生活が荒れて2005年に死ぬが、葬列を見送るファンが次のようなメッセージを掲げたという。
「マラドーナ グッド、ペレ ベター、ジョージ ベスト」
マンUは欧州で輝いた1968年の10年前の1958年に飛行機事故に遭い選手8名とスタッフ3名が死亡し、チャールトンも軽い怪我を負う。その後10年でトップに上り詰めたのだ。1970年代に低迷したり、その後アレックス・ファーガソン監督の下で全盛期を迎えた時代の事は私はもう知らない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?