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日本サッカーメキシコシティ五輪で銅メダル -決勝トーナメント-

画像は1968年第19回メキシコシティオリンピックサッカー競技の決勝トーナメント結果と、3位決定戦の先制点の場面です。
 
残念ながら、日本が決勝トーナメントを戦った3試合の映像の記憶が殆ど無い。釜本邦茂がメキシコとの3位決定戦で上げた2得点の場面は後年何度となく見たが、当時も中継ではなくニュースやダイジェスト番組で見たのみだと思う。
準々決勝のフランス戦は前半27分に釜本が先制点を上げ、32分に追い付かれるが、後半14分に釜本、25分に渡辺正が得点して3-1で快勝する。この試合もテレビ中継は見ていない(はずだ)が、印象的な得点があった。何点目か覚えていない。ゆえに得点者が釜本だったか渡辺だったかも不明だ。とにかく得点前の宮本征勝から釜本へのロングパスがすごかった。宮本征は前に紹介した宮本輝紀とは真逆のタイプだ。(親戚でもない。)身長は高くないが屈強な身体を持つハードタックラーで、代表では左SBを受け持ち、殆ど攻撃への関与は期待されていなかったはずだ。その宮本が自陣左サイドからフィールドの対角線を描くライナー性のロングパスをフランス陣内の右サイドに張っていた釜本に通す。なにしろGKのパントキックがハーフウェイラインを超えると「おおっ!」となっていた時代だ。宮本のキックに度肝を抜かれたと思う間もなく、釜本が持ち込んで自らシュート、或いはラストパスを渡辺に出して、渡辺が決めた。要は宮本のロングキックしか覚えていないのである。宮本はJリーグ創立1年目の1993年にジーコやアルシンドを擁して前期優勝を遂げた鹿島アントラーズを監督として率いていた。ジーコが事実上のボスだったとはいえ、現役時代のイメージからは想像もつかない柔和な印象に驚いたものだ。宮本は後に清水エスパルスの監督も務め、2002年に63歳で他界する。
準決勝のハンガリー戦についてはあまり書くべき事はない。前半に1点、後半に4点取られて0-5で敗戦している。資料によると第1戦で負傷退場した八重樫茂生が宮本輝紀に代わって途中出場している。交代時刻が不明なので失点時刻との前後関係は不明だが、敗戦を覚悟して宮本を3位決定戦のために温存したかったのではないだろうか。そして最後の五輪になるであろう35歳の八重樫が交代選手として選ばれたのではなかろうか。
ハンガリーは決勝でブルガリアを4-1で下して優勝している。この時代のハンガリーは五輪で強かった。調べた範囲では1960年ローマで銅メダル、1964年東京と1968年メキシコシティで金メダル、1972年ミュンヘンで銀メダルを獲得し、1976年モントリオールでは欧州予選で敗退している。但しW杯では1938年フランス大会と1954年スイス大会での準優勝をピークに、苦戦が続いており、U-23の五輪代表も記憶に新しいところ(といっても28年前だが)では、日本が28年ぶりに出場した1996年アトランタ五輪の予選リーグでブラジル、ナイジェリア、日本を相手に3戦全敗している。しかし伝説の名選手プスカシュを擁するなど、個人技重視でマジックマジャールと呼ばれ、1956年のハンガリー動乱まで世界を席巻した時代のハンガリーは人々の記憶に残り、今FIFAでは主催大会において、その年で最も優れたゴールを決めた選手に“FIFAプスカシュ賞”を与えている。
さて、日本とメキシコの3位決定戦である。舞台はメキシコシティのアステカスタジアム。ともに中1日で、メキシコはグアダラハラからの移動があったとはいえ、公称105,000人の観客が地元メキシコの応援に駆け付けた。日本は前半20分と40分にいずれも釜本が杉山隆一からのパスを受けて得点した。1点目のクロスボールはブラジル戦の得点と同じような位置から右足で上げたもの。釜本はこれを胸でトラップして、足元に落としたボールを左足でゴール右隅に流し込んだ。釜本は蹴りそこないと謙遜するが真偽は不明である。また杉山のクロスボールは、実況が確か「杉山上げられるか・・・上げられない。」と言った直後に蹴られたように記憶している。即ち縦か横かのフェイントを繰り返した後のクロスだったのだ。釜本の2点目はワントラップから右足でゴール左隅に決めたミドルシュートで、杉山の右足のグラウンダーのクロスも1点目より低い位置からだったと思う。今、映像を見ると2点とも何でこんなに釜本へのマークが甘いの?という印象を受けるが、1点目はそれだけ胸トラップが巧みだったのだろう。また2点目は多少距離が有ったのでシュートを打たれるより抜かれる事を警戒したのだろう。日本は後半の終盤には相手にPKを与えるが、GK横山謙三が右に飛んでセーブする。これを機に「メヒコ、ラララ」と応援していた観客の一部が「ハポン、ラララ」と日本を応援するようになったという。また、日本のディフェンス陣が大きく観客席にまで蹴りこんだクリアボールを観客がスタッフに返さない、即ち観客が日本のために時間稼ぎするような出来事もあったそうだ。今のようなマルチボールシステムの時代ではない。結局日本は先発の11人がこの2点を守り切って2-0で勝利する。試合後のロッカールームはさぞ盛り上がっていた事だろうと思いきや、出場選手はベテランから若い者まで苦しげにうんうん唸っていたという。これを見たデットマール・クラマー元コーチが長沼健監督に「長沼よ、これが大和魂だ。」と言ったという。日本の試合会場は予選リーグの2試合がプエブラで、3戦目と決勝トーナメントの3試合がメキシコシティだった。標高はプエブラ市が2135m、メキシコシティが2240mである。メキシコシティで行われた陸上競技では薄い空気にも助けられて男子走り幅跳びで驚異的な世界新記録が誕生している。これらの高地で中1日で6試合戦う過酷さが偲ばれる。
日本は銅メダルを獲得し,日本の全9点のうち7点を上げた釜本が大会の得点王に輝く。大会中、スタジアム周辺で釜本がサインに応じていると色紙ではなく契約書が差し出され、本人は気付かなかったが、そばにいたクラマーが気付いて慌ててサインを辞めさせたというエピソードもある。また選出基準は不明だが、日本はフェアプレー賞も獲得する。尚、前々回の記事に書いた通り選手は19人登録が可能だったことから、日本は選手18人と岡野俊一郎コーチが表彰式でメダルを授与されて記念写真にも納まっている。
記録をまとめると何とGK横山、右SB片山洋、スイーパー鎌田光夫、ストッパー小城得達、ボランチ森孝慈、CF釜本の6人が全6試合でフル出場しており、トップ下の宮本輝紀と左ウィングの杉山も全試合に先発している。他にマンマーク職人の山口芳忠、左SBの宮本征勝、第2戦でのスーパーサブの後フル出場した右ウィングの渡辺が5試合に出ており、結果的にこれら11人が中心のチームだった事がわかる。
山口は4年後の1972年にブラジルのサントスFCが来日して1試合のみ日本代表と戦った時にペレをマークした。結果は0-3でペレにも2点許しているが、ペレは当時27歳だった山口について「もう少し若かったらブラジルに連れて帰りたい。」と社交辞令を出している。
メダリスト18人の多くは大会後も所属チームや代表チームで活躍し、引退後も指導者として各層で活躍したが、日本代表Aチームと、Jリーグチームの監督に限定すると、日本代表Aチーム経験者は渡辺1980年、森1981-1985年、横山1988-1991年の3人、Jリーグ経験者は横山が浦和、前述の宮本征勝が鹿島、清水、山口が柏、森が浦和、福岡、釜本がガンバ大阪、松本育夫が川崎フロンターレと鳥栖、以上6人、のべ9チームである。他に松本はテレビ中継の解説者としても活躍した。釜本はガンバの監督としては成果を残せず1994年に退団しているが、1995年から6年間自民党の参議院議員を務めている。日韓議員対抗戦なるサッカーの試合ではさぞかし活躍したであろうが、本職の議事堂内でもダッシュ力を生かして、野党の追及や威嚇が予想される場面で議長のセキュリティーガードのような役割を果たしたという。ん、これが本職?
2024年5月末時点で長沼監督、岡野コーチ、平木隆三コーチは既に他界し、18人の選手の内8人が亡くなっている。残り10人の平均年齢は約82歳、彼らレジェンドの存命中に日本は再びメダルを獲得できるだろうか。

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