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寝取られ

【引用開始】
それから十日ほど後、勤め先にいた浅見の許へ一本の電話がかかってきた。
「浅見君か、久しぶりだな」
いきなり話しかけてきた声に聞きおぼえがあったが、咄嗟におもいだせない。
「そろそろ十五年になるかな。きみも元気でなによりだ」
親し気な口調の底に見下しが感じられる。浅見が記憶をまさぐっていると、
「先日、久しぶりにきみの消息を意外な人から聞いてね、懐かしくて電話したんだ。まさかきみが彼女と結婚してたとは知らなかったよ」
記憶を烟らせていた霧が晴れた。
「き、きみは江木・・・・・・!」
「ようやくおもいだしてくれたようだな。いや本当に久しぶりだよ。それにしてもまさかきみと美知子がね、うふふ」
江木は、人の妻を呼び捨てにして含み笑いをした。その底にはなにかがあるようである。
「なにか用かい」
十五年ぶりの再会にはちがいないが、懐かしさなどは一片も感じられない。
「旧友が久しぶりに再会したのに、なにか用かとはご挨拶だな」
「きみになんか再会したくない。用がないのなら電話を切るぞ」
「まあ待てよ。せっかくきみにとって有益な情報を聞かせてやろうとおもっているのに」
「有益な情報?」
「そうだよ。知っているのと、知らないのとでは今後の家庭生活に大きく影響するよ」
「私の家庭にどんな関係があるのだ」
「あんたの細君は、本当に悪い女だね」
「なんだって!?」
「悪い女だと言ったんだ。いまおれがどこから電話をかけてるとおもう?」
「・・・・・・?」
「あんたの家からだよ」
「なに!」
浅見がおもわず大きな声を発したので、室内に居合わせた者が視線を集めた。
「いきなり大きな声を出したので、鼓膜に響いたよ。本当にあんたの家にいるんだよ。嘘だとおもったら、そちらからかけ直してみるといい」
「私の家になんの用だ」
「奥さんに用事があってね」
江木はまた含み笑いをした。
「美知子を出せ」
「彼女はいまシャワーを使っているよ。この意味がわかるかね」
浅見の胸に点じた疑惑の火がしだいに勢いを強くしてくる様を電話線の向こうから見物しているような余裕をもった声で、江木はさらにつづけた。
「たったいまおれと寝たばかりの体を、シャワーで洗い流しているのさ。耳を澄ませばシャワーの音が聞こえるかもしれない。おれはいまあんたら夫婦のベッドの上から電話しているんだよ。おれもずいぶんいろいろな女を知っているが、あんたの細君のような悪い女は初めてだ。夫婦の寝室に男を引っ張り込んで、情事の最中あんたの悪口を言いづめだった。旦那の悪口を言うと、刺激が高まるらしいんだな。そんないやな男となぜ結婚したんだと聞いたら、とりあえず他に適当な男がいなかったからだと言いやがった。あ、そろそろ風呂場から出て来る気配だ。二、三分したらそちらからかけ直してみるといいよ」
江木は一方的に電話を切った。浅見は、無防備のところをいきなり打ちのめされたようにしばし茫然としていた。江木が浅見の自宅に上がり込み、妻を抱いた後電話してきた。江木本人が言ってきたことでも、にわかに信じ難い。それはあまりにも傍若無人な振舞である。もしそれが事実だとすれば、江木はなぜそんなことをしたのか。
「浅見さん、どうかしたのか」
同僚が浅見の異常な様子を心配して問いかけてきた。
「いやなんでもない」
同僚の懸念と好奇心を躱して、浅見は別室に行った。一人になれる場所からともかく自宅へ電話をして確かめなければならない。浅見は祈るような気持で自宅のナンバーをダイヤルした。数回のコールベルの後、妻の声が応答した。
「あら、あなた」
美知子の声は平静そのものである。
「なにか変わったことはないか」
浅見は遠まわしに探りを入れた。単刀直入に訊いてとぼけられてはならない。
「べつになにも変ったことなんかないわよ。どうして?」
妻の声が訝しがっている。その口調に作為は感じられない。
「いまなにをしていたんだ?」
「洗濯物を取り入れて、スーパーへ行こうかとおもっていたところよ。どうしてそんなことを聞くの?」
「だれか訪ねてきた者はいないか」
「いいえ、だれも来ないわよ。だれか来る予定になっているの?」
「いや、きみを訪ねてだよ」
「私を訪ねてだれも来るはずがないじゃないの。いったいどうなさったの。今日のあなたは少し変だわ」
浅見は、いくらか安心した。やはり江木はでたらめを言ったのだ。学生時代のカモの消息を聞いて、久しぶりにからかってみたくなったのだろう。
「そんならいいんだ。もしかして江木は来なかっただろうね」
浅見は念を押した。
「江木さんがどうして家へ来るの? 来るはずないわよ」
「それならいいんだ。ちょっと気になることがあってね」
「あなたって心配性なのよ。そんなことより今夜早く帰れるんでしょう。お夕食なに食べたい?」
その言葉に、せっかく鎮まりかけていた浅見の不安がまたかき立てられた。これまで彼女がそんな殊勝なことを訊いたことがなかったからである。やはりなにか心に疚しいものをかかえているので、ふだんは口にしないせりふを出したのではないのか。その時、同じ電話線に妻のものではない含み笑いが低く入って、江木の声が割り込んできた。
「奥さん、あんたも相当なタマだね。夫婦のベッドの上に他の男と裸で寝そべりながら、旦那に電話で晩のおかずを聞くんだから。いやとてもかなわない」
江木の声を打ち消すように妻の悲鳴が迸って、
「なにをでたらめ言うのよ。あなた、こ、これはなにかのまちがいよ。そうだわ、混線しているのよ。いまの声、だれ? あなたなんか知らないわ」
と必死に弁じ立てた。だが、彼女のうろたえた声と、自宅の電話に江木が出た事実が、無残なばかりに不貞を証明していた。
江木は、浅見の自宅でその妻を盗んでいた。そしてその事実をわざわざ浅見にのっぴきならない現場から知らせてきたのである。それは十五年前の番長と奴隷の関係が、いまだにつづいていることを浅見に宣告するためであった。たとえ何年経とうとおまえはおれの奴隷だ。その事実を忘れるな―江木は、いまだに番長の位置にふんぞり返りながら、当然の権利のように浅見の妻を犯したのである。
「あなた、待って。誤解しないで。私の話を聞いてちょうだい」
妻の絶叫を半ばに浅見は電話を切った。
【引用終了】
私が“寝取られ”というジャンルを認識したのはネットの世界での事です。“寝取られ”大好きです。ネットからDLした寝取られ小説の一節をコピペするのは”写経“の精神に反するので、皆様に紹介できる紙の小説に寝取られものは無いかと思いめぐらしてみたのですが、そもそもネットで知った”寝取られ“を意識して本を購入した事がないため、思い当たりません。私が読んできた小説はSMを中心としたエロ小説ばかりなんですが、例外的に高木彬光さん、森村誠一さん、西村寿行さんの作品はいくつか読んでいます。西村さんのは結構エロいのですが、森村さんのも性的な場面でなくても登場人物が悪役や社会情勢によって悲惨な状況に陥る(例えば小さな会社が倒産に追いやられるような)描写にマゾヒスティックな刺激を受ける事があります。という事で、紹介したのは1980年に発行された森村誠一さんの”太陽黒点”の一節でした。作品全体は普通の推理小説で、引用したのは最初の方の登場人物の紹介ともいうべき部分です。そもそもエロ小説ではないので、この後浅見さんは美知子さんと離婚して、寝取られ場面はこれきりです。”寝取られ”という用語を知らない時期に読んだにもかかわらず、強烈なインパクトを受けたシーンです。
画像は“太陽黒点”のカバーですが、初版の講談社版ではなく、1988年発行の角川文庫版のもので、私が読んだのもこちらです。右側はネットで拾った寝取られイラストで、“太陽黒点”とは無関係です。

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