小説を供養する

北部生協などにて部誌頒布中!

こんばんは。伊織です。見出しのとおりです。読んでくれたという方もちらほらいらっしゃって嬉しい限りです。もっと言ってくれてもいいよ。嬉しいので。僕に限らずどんどん感想とかつぶやいてください。ここだけの話、感想とかつぶやいてくれた人はお菓子配りとかで平気で贔屓します。たぶん。

すごく素敵な扉絵がついています、それだけでも見て!

僕が書いた「青く燃えている」という小説には、すごく素敵な扉絵がついています。もしかしたら誰が書いているのかわかる方もいるかも。それくらい素敵な絵だし、みんなもそう思っていると思います。羨ましかろかろう。僕はすごく素敵な友人を持ったことを嬉しく思っています。

以下、供養です。

ということで宣伝ついでに過去に書いたことのある小説を供養します。6篇の小説それぞれについて、覚えていることを紹介程度に書きます。もしこの中で好きなのがあったら教えてください。もっと読みたいとなったら、北部生協とかにおいてある文芸部の部誌を読んで下さい。もう良いやと思ったら、今のほうがまだ文章はマシなので文芸部の部誌を読んで下さい。よろしくお願いします。小説は書いた順に並べています。それではどうぞ。



「また明日。」(4000字程度)

人生で初めて書いた小説。最初はこういうことをしたかった。ただ文章が下手すぎる。見返してもないし、直そうとも思わない。
でも、冒頭の一文だけは今見返しても好きです。これ書けただけで、まぁ許してやるかという気持ちになります。この小説をある人に見せたらすごく褒めてくれて、調子に乗って色々書いた思い出があります。人間、やっぱり調子に乗らないといけない。その方には今でも感謝していますし、今でもたまに連絡を取っています。いつもありがとうございます。


鏡の中の私が笑ったから、置いてかれないようにわたしも笑いました。

 今日は日差しが強くて、鏡に反射した日光で思わず目をつむっちゃいます。時計を見ると、六時半。ちょっと外の世界が気になります。んーと、あの服はどこにありましたっけ。お気に入りの服が見つからないです。タンスから出した服もしまわずに、お目当ての服だけを探しちゃいます。

 そうそうこれこれ。本当にこれかわいいです。鏡の中の私に尋ねます。

「これって似合ってますか?」

「すごいかわいいよ! やっぱりその服が一番だよね!」

「ね! やっぱり!」

 ......なんて、こんなこと他の人に聞かれたらどう思われちゃうかな。絶対他の人には見せられないぞ。
部屋に一人しかいないからこそできる対話を終えまして、鏡の中の私に「いってきます」と言ってドアを開けます。

 ドアを開けると、直接、日光が襲ってきます。燦燦とした、なんて言葉はこのためにあるんだろうな、とか考えちゃいながら、一度家に戻り、日傘を探します。確か玄関に置いているはずです。あ、ありました。奥のほうに入ってた日傘を無理やり引っ張り出します。日傘なんて普段使わない代物だけど、今日は使っちゃいます。

 でも、使い慣れてないから操作に戸惑います。あれ、開きません。よく見たら、傘が開かないように止めてあっただけで、誰もいないけど恥ずかしくなりました。

 そしてまたドアを開け、一歩目を踏み出します。目に向かってくる日光を右手で遮ってこれが外の世界か、なんて呟いてみます。確かにインドア派だけど、ちょっと大げさです。それでも外に出るっていうのはワクワクしちゃいます。これくらい大げさになっちゃっても仕方ないです。

 普段しないスキップをしてみます。見よう見まねで久しぶりにスキップすると意外とぎこちない。最後にスキップしたのはいつだっけな。先輩からデートのお誘いがあった時かな。とかそんな浮ついちゃったことも考えちゃいます。

 外に出ると、心がはねてはねて、抑えきれなくなります。でも、今日のわたしは全然違います。日傘も持っているからおしとやかでいないと。そうして、留め具を外した日傘を開き、今までとは別人のように街へ出ました。

 街はまだ早朝なのに活発に生きていて、そこにいる一人一人が生き生きしてます。ふふ、でも今日のわたしより生き生きしている人はいないです。なんてたって、今日のわたしはいつもと違うんですもの!少し口角が上がっちゃうのを抑えきれず、街の中を歩きました。

「あれ、○○ちゃんじゃない!」

「こんにちは!」

「日傘なんて大人っぽくなったね~ なんだか見違えちゃったよ!」

 ほら、見ましたか皆さん。わかる人にはわかってくれるんです。

「えへへ」

「こんな時間にお散歩かい?」

「はい!」

「そうかい! またね!」

「はーい!」

 ......元気にあいさつしたわたしは実は悪い子で、あのおばさんが誰なのか分からなかったです。でもいいのです。またわたしは歩き始めます。それより普段見れない早朝の町を楽しみます。

 街の商店街に着きました。普段なら一つ一つのお店が開いているのでしょうが、少々早すぎたようです。どこのお店も何も売っていません。どうしましょう。そういや暑い日だから、化粧は崩れていないかな。周りに誰も見ていないことを確認して私は手持ち鏡を確認します。

「私ここ飽きちゃったよ」

「そんなこと言っちゃだめです。もっといろいろ発見できるはずです!」

「んーでも......」

 鏡と話してもらちがあきません。諦めてほかの場所を探します。

 ふと、わたしは久しぶりに走りたくなりました。走るのなんて本当に久しぶり。スキップよりしていないんじゃないか。でも今日は違います。わたしは商店街から抜け出して、目的地も決めないまま、走り出しました。

 わたしは思いっきり走りました。走り方も正しくはないかもしれないけど、私は自分の思うように走りました。でも、テレビで見た大きく腕を振るっていうのはちょっと意識しました。大きく振っても早くなった感じはしませんでしたが、風を切るように走るヒーローみたいでワクワクしました。

 でも思い出したのです。今日は日傘を持った大人の女性になることに!わたしはしくじってしまいました。しかも肝心の日傘を持っていません。商店街のところに忘れてしまったんでしょう。わたしには自分の立てた作戦が崩れる音が聞こえました。あとたぶんだけどせっかくした化粧も崩れました。普段と違うことをしてみたくなったって、衝動的に動いてはいけませんね。

 頭の中で反省会をしていると、運動公園に着きました。早朝でも小さい子供やお年寄りの方は元気でいらっしゃいました。さっきあったおばさんがここでまた会ったら、さっきの日傘はどうしたの?と聞かれてしまうんじゃないかと怖くなりましたが、高をくくって公園に足を踏み入れました。

 公園には芝生の山があって、子供たちが寝っ転がっていました。わたしも寝っ転がってみたい!そう思った時にはもうわたしは寝っ転がっていました。おしりと背中が芝生に着いたくらいに、もしかしたら服が汚くなるんじゃないかと考えましたが、遅かったです。

 でも、仕方ないです。走って疲れちゃったんだもん。せっかくならごろごろ転がってみよう。ごろごろ転がると草のにおいが鼻腔を刺激して、むずがゆいような、でも優しいにおいを感じました。でも服はきっと汚いです。やっぱり衝動的に動いちゃいけませんね。

 はっ、とすると外はもう暗いです。わたしはお昼寝してしまったんでしょう。いけないいけない。わたしの大人女性計画(そんなことは今考えました)が台無しです。

 でも、今日がだめでも、明日がいいならいいのです。と、思ったら明日は月曜日で、そして明日は学校でした。なかなかうまくいきませんね。

 でもわたしは今生きています。死ぬまでにはできるでしょう。なんて楽観的なんでしょう。あとは衝動的に動かないように気を付ければ完璧とわたしに言い聞かせました。

 手持ち鏡を見ようとしましたが、暗くて何も見えません。なんだか誰もいないみたいで怖くなっちゃいます。周りを見ても誰もいないけど、確かにわたしはいます。半透明にもなっていないし、ほっぺたをむにむにしてもちゃんと手ごたえがあります。

 わたしは暗いのが嫌いです。夜も嫌いだけど、朝日が昇っても遮光カーテンを閉め切ってるのも嫌いです。根っからのインドア派だけど譲れません。夜は嫌いだけど、寝るのは大好きだからいつも許してあげてます。許してあげているだけです。

 言い訳していると大きなあくびが出ました。おうちに帰ってベッドで眠ることにしました。日傘はまた明日です。おうちに帰るまでの道は、ちょっと怖くて、また走って帰りました。

 おうちのドアを開けて電気をつけます。ちゃんと手洗いうがいアルコール。草のにおいがいっぱいついたお気に入りの服は大好きだけど、次に先輩とデートに行くとき、草女のイメージを持たれちゃうと困るから、ちゃんと洗濯機の中にぽいってしました。服を着替えて、シャワーを浴びます。湯船にざばーっと浸かってみたかった気持ちもありましたが、面倒なのでまた明日にします。なんだか今日は、いっぱい明日にしている気がします。シャワーを浴びて、お風呂場にあったかわいいパジャマを着て、歯を磨いてもうわたしは寝る気満々です。すぐにわたしの部屋に向かいました。

 今日は、すごく楽しかったな。また明日もあるなんて幸せだな。

 わたしの部屋に入って電気をつけます。カーテンを閉めていなくて、慌てます。だめだめ。わたしのお部屋は国家機密なんです(わたしは国家の領主でも偉い人でもないけど、だめなんです)。あーあ。服を散らかしたままです。これもまた明日。また明日って幸せな言葉だけど、ちょっと使いやすすぎて人をダメにしちゃいそうですね。

 そして、わたしは寝る前に必ずすることがあります。お部屋の全身鏡と向き合って、今日一日のことを私とちゃんとお話しするんです。

「ねぇねぇ、私、今日一日どうだった?」

「ねぇここから出してって!!!!!」

 私が何か言ってます。

「鏡の世界のほうが楽しいって嘘じゃない!! 早く私をここから出して!!」

 おかしいなぁ。私が入りたいって言ったのに。でも今日学んだことを思い出すと、すごく納得がいきました。そう考えるとちょっとクスッと笑ってしまいました。

「何笑ってるの!! 早くここから出して!! 私を戻して......」

 あらら、私が泣いちゃってる。そんなことしちゃったらわたしも涙が出てきちゃいます。だって、わたしは鏡の世界の住人ですもの。かわいそうだから教えてあげます。

「ふふ、お互い、衝動的に動いちゃいけませんね。」

 それを聞くと、私は何も言えなくなっちゃいました。もっと泣かせちゃったみたいです。涙の量は、わたしに見えませんが、わたしの涙の勢いが強くなった気がします。

「今日わたしはいろんなことを学びました。でも今日はもうお休みしたいです。」

「だめ!!! せめて電気!! じゃないと消えてなくなっちゃう!! だからっ!!」

「......また明日。」

 部屋の明るさは外より暗くなりました。改めて遮光カーテンはすごいですね。外の世界に置かれていた時は、太陽はなくても月の光で照らしてくれましたが、これのせいで、わたしは。でもそんなこと言ってもしょうがないです。気づいたら、さっきまでそこにあったはずの鏡は暗闇の中に消えちゃいました。


「魚人」(3000字程度)

小説を読み始めて一ヶ月経ってないくらいで(実は小説を読んだことがほぼないのに、浪人していた一年に小説を書き続けていた、何してんねん)、カフカ『変身』を読んで、そういうことがしたくなった小説。個人的には小説書いたことある人は、一回くらいカフカエスクしたくなるんじゃないだろうか。そして、結局カフカだけでよくないか?となる。最近だったら金子薫とかがカフカカフカしてるはず。読んだことはない。これを入りたての文芸部で掲載したら、知らない先輩が秀作と褒めてくれたのが嬉しかった。結局その先輩が誰なのかわからないまま卒業してしまったみたいだけれど。


 苦しみで思わず目を覚ました。苦しい、息ができない。水、水だ。我が身が干からびてしまう。究極的な脱水。私はそれに突き動かされて飛び上がった。
 息ができないから水を飲むという経験をこれまでしたことはなかったが、それが唯だ一つの解決策だとフィルム一枚が入り込むのもあり得ないほどの刹那の中、そう信じて止まなかった。
 ベッドから飛び上がり急いで台所へ向かった。水、水だ。水がないと死んでしまう。脱水症状など名状されているもののような生ぬるいものでは到底なかった。水分の不足によって体調に異常をきたすのでなく、私の症状は水分の不足そのものが私の首を絞め、心臓の規則正しい鼓動を今に求めようとしていた。それゆえ、荒れ狂う波の眩暈、惑星の中心の高熱、生命を拒絶する悪寒が私を容赦なく襲う。私はきっとこのままであるならば、三分ほどで自死を選択してしまう、それほどの地獄だった。早く殺してくれ、殺してくれと懇願したことは一度だけあったが究極的な喉の渇きは声帯を震わせることを一切許さなかった。水、水だ。
 私は間抜けに大きく口を開き、今か今かと水を待ちながら台所へと向かった。寝室から三メートルばかりだった道程はその何千倍にも感じられた。急いで蛇口をひねり、その口から水を吐き出させた。正確には水を吐き出す前から私の口は大きく惨めに開いていて、最初に水の滴が現れて、一粒が滴り、二粒滴り、やがて連続的に上から水が降るのを、私は下から正確に見た。その雫がようやく私の渇き切った口に届いた。
 あぁ、旨い。人は、真に美しい物に出会った時、ろくな言葉で形容することができない。同様に私は、その雫がもたらす味を、色を、世界を、正確に表す言葉を持ち合わせてなどいなかった。ただ私の無知を承知で表すのであれば、それは天国から湧き出た泉のしぶきであろう。私はそんなもの一度たりとて飲んだことがなかったが普段飲んでいる水がそう感じられたことは一度もなかったし、大好きな酒を飲んだ時でさえその幸福感には到底及ばなかったから、それは天国からの贈り物であるとしか思えなかった。
 やがて顔面で流れ出す水を受け止めているうちに、その勿体なさを発見した。なぜこれほどまで美味い水の大半を受け止めきれず下水道などに流してしまうのだろう。神から与えられた恵みを一体どうして肥溜めに捨ててしまうのか。それに水を顔だけで受け止めてしまうこと自体非常に愚かであった。全身を受け皿とすべきだ。あぁ確かにそうだ。そうしなくてはならない。
 その時、一閃の光が脳に飛び込んでくる。風呂場だ。風呂場に水を貯め全身でその悦びを享受するのだ。その決意を固めた後から私は水をできるだけ口からこぼさず飲みながら衣服を脱いだ。服を一枚、また一枚と脱ぐたびにこれまで感じたことないほどの悦楽を感じた。触れるものが減るほど、私の肌は喜んだ。皮膚が能動的に呼吸している。皮膚呼吸だなんて、そんな微々たるものでは決してない。細胞の一つ一つがえさを与えられた池の鯉のように大きく口を開け、与えられたままに酸素を咀嚼していた。布に遮られていた空気全てを食い散らかした。特に顔面のそれは水分も受け止めていて、腕や腹などの奴等とは段違いに喜んでいた。顔のみでこの様であれば、風呂に入り全身で水を感じたならば、私は悦楽に溺れて死んでしまうと確信した。だが、もしそうであったとしても私はそれをどうして拒むことがあるだろう。何を私が阻むのであろう。むしろそれが私の本望であろう。あぁ、考えただけでこれ以上の幸せはきっと無い、天上界に指先が触れてしまった。
 私はすぐさま風呂場へ急いだ。その間私の皮膚は再び飽きることなく渇いた。あれほどの量でも足りない。水を切望していた。文字通りの渇望である。水、水だ。風呂場に飛び込んだ私はまたも蛇口から水を放出させた。風呂場はいつもより非常に大きく、私のすべてを包み込んで、そして離さないと言った。
 その瞬間私は直感した。私は人でなく魚であったと。確信した。魚の私は目の前の海に飛び込むのだ。一体何がおかしいであろう。至極当然のことをどうして今までしてこなかったのだろう。私は人のふりをして今まで生きてきたことが愚かであって小っ恥ずかしい、消し去りたい過去であった。だが足元十センチメートルほどの海が今までの記憶をゆっくり侵食して消し去っていき、回想さえも包み込んで暗い暗い底へと消し去った。生まれた海はさざ波を起こして私と海の境界をも消し去った。本来海には蛇口など無いが、むしろそれが天使の水瓶として働いて、また目の前が神聖なる海であることを補強した。あぁ、私は魚になって、海にもなったのだ。なんて幸せなことだろう。私は天上界に確かに進むのだ。もう右手の五本指はその地を掴んだ。私の本当の居場所、それは海である。なぜ気づかなかったのだろう。あぁ、私の無知をお許しください。今更ながら私は魚になります。人などは、もう最低です。魚になるために私は生まれてきたことをようやく思い出しました。お許しください。神よ、ポセイドンよ。この身をもって償わせてくださいませ。
 海に飛び込んだ私は、想像以上の快楽に包まれた。これ以上の幸福が現世にいまだかつて存在していただろうか。私一人で受け止められる幸福の総量を優に超えて、私は水中で醜く絶頂した。頭に電撃が走って、何も抱えず絶頂した。私は死など知らぬまま天上界に足をかけた。
 だがその瞬間天上界が離れていく。いや、私が天上界から離れていった。何事だ。私の快楽を邪魔するのは何者だ。私は暴れ狂った。だが海は私の暴力までも優しく包み込みなさって、思うように動くことをお許しなさらなかった。水面でジャバジャバと音が聞こえる。私が暴れているのを私が聞いた。結局何が起きているか分からないまま、私は再び空気に触れた。
「桜井さん! 何してるんですか!」
「お前こそなんだ! 私は魚だぞ!」
「何言ってるんですか! 高井ですよ! 毎日お世話してあげているでしょう! それにあなたは人間です!」
「わかった! さては地獄からの使者だな! そうやって天上界への邪魔をするつもりだな!」
「ほら早く上がりなさいって!」
「嫌だ! 私は魚だぞ! 魚として生きるんだ!」
「あぁ、もうこうなったら!」
 女は男の口に何か固形物を入れ、水で無理やり飲ませた。突然のことに抗えないまま男は意識を失った。

 目を覚ました。水が欲しい。喉が渇いた。一杯の水をコップに注いで少し飲んだ。無機質な病床。左手とベッドに繋がれた手錠。まっしろな個室。目の前にあるナースコールのボタン。どうして私はここにいるのだろう。何をしていたか、何年生きているのか、私が誰なのか、何もかも覚えていなかった。飲みさしの水を飲み干して、もう一度水をなみなみまで注ぐ。とくとくと注がれたコップ一杯の水を、目線をその地平線に合わせて眺める。なんだか小さな海みたいだ。私はそのコップを持ち上げる。小さな海が波を立てて揺れ動く。
 私は上を向いて、意味もなくコップを顔の上で逆さにした。水は勢いよく私の顔に落ち、しぶきが衣服に染み込んだ。顔だけでなく体全体が寒い。どうしてそんなことをしたのか自分でも分からなかった。濡れた顔を拭こうとタオルを使いたかったが、手元になかった。私は仕方なくナースコールのボタンを押した。
「高井さん、タオルお願いします」 


「記念の甘噛み」(8000字程度)

上にある「魚人」と同じ時期に書いた。短編とは言え同時に書く気力があったんだ、ぼく。今もそれくらい頑張れればいいのに。完璧主義なのをどうにかして捨てたいなぁ。可愛い女の子が二人出てきて、文芸部の人たちがどっちの女の子派みたいな話で盛り上がってくれてすごく嬉しかった。でも過去問のことを思い出すパートがめちゃくちゃ気持ち悪いって言われたのが一番嬉しかった。


 土曜の六時半、僕は新調したジャケットを羽織った。僕はジャケットには断熱性と保温性くらいしか求めないが、その見た目が良いと世間が言っていたから買った。三年生の僕がサークルの飲み会に行く必要はあまりないが、新歓ならば僕も行かざるを得ない。出会いの場を自ら狭めてしまうのは、僕の未来に影響が出てしまうだろう。僕は、レポートを片付けて外に出た。春なのに、外はまだ寒かった。

 今日の飲み会で、めぼしい相手と言えば一人くらいだった。二つ年下の佐々木という女だ。佐々木は積極的に僕と話したがっているように見えた。最初は僕の右斜め前に座っていたが、ある時僕の隣に移動した。佐々木は結構美人で、スタイルは驚くほど良かったから、周りの男子からの視線を大いに受け止めていた。佐々木はそれに気づいているらしく、立ち上がって僕の隣に座るまで、常に口角が上がったままだった。
 僕は佐々木のような恋愛に前のめりな女性の方が好みだった。人が恋愛に前のめりになっている格好は、獣が獲物を狙う一瞬のように油断にあふれているし、よだれを垂らしているような惨めさがある。目の前の女性がそんな惨めな姿を晒していると、僕は放っておけなかった。それに、その子が僕だけにその姿を見せるよう仕向けるのが得意だった。奥手で受身なスタイルでも女には困らなかったから、このスタイルを変える必要は一切なかった。むしろそのおかげで色々な女を楽しめているとすら思っていた。
 佐々木が僕にアクションを起こしたのは、サークルの飲み会が盛り上がりのピークを終えたくらいだった。佐々木は慣れない酒を飲みすぎて、具合が悪くなってきたから帰ると言い出した。サークルのみんなには見えないように、佐々木はテーブルの下で僕の右の太腿を人差し指でなぞった。その軌跡は千鳥足をたどったような流線型でなく、はっきりした直線だった。それに気づいた僕が右を向くと、佐々木が色っぽい表情を浮かべて左を向いていた。僕は角に座っていたからその表情を確認できたのは僕だけだった。
佐々木は、僕にだけ最終兵器を用意していた。別にそれがなくても、佐々木さんが心配だからと適当な理由をつけて、僕の家に送る予定だったから、佐々木がそこまで用意周到な準備をする必要はなかった。だが、その表情は僕の独占欲をさらに掻き立てた。僕と佐々木は、少し肌寒い空の下をぎごちなく歩いた。

「すみません、実は私ああいう場って結構苦手で。お酒を飲んで騒いでいる人が何人もいると引いちゃうんですよね。だから佐藤先輩が隣にいて今日は助かりました」
 佐々木はすでに僕の名前を覚えていた。名前を覚えられるというのは、自らの存在価値を認められたような、要は悪い気はしなかった。けれども佐々木の発した文章は、僕と近付くためだけに取り繕ったものだと直感してしまい、笑いを堪えるのが大変で、佐々木との会話の内容はあまり覚えていない。覚えているのは、やはり佐々木が佐藤と発したことくらいだった。
 また僕は佐々木の性格をまだ知らなかった。強いて言えば、男の視線を集めることに一種の悦楽を覚えている、くらいだろうか。確かに佐々木は集客性がある顔立ちとスタイルで、それら二つを僕は高く評価していた。何よりそれを今は、今からしばらくは僕が独占できるということが嬉しかった。他の男どもにも見せてやりたかったが、佐々木はきっと嫌がるだろうから、佐々木がそういう歪んだ趣味を告白した時以外はやめておこうと思った。よくよく考えてみれば、相手の性格を知らないのは佐々木も同様で、性格を知らない相手の家に上がるのも、またその逆も少し怖いものだった。だけどきっと互いの顔の良さが心のセキュリティの脆弱な部分に付け込んでいるのだろうと、えらく冷静に分析した。そのうちに僕の家に着いた。ゴミ箱の中身だとかをきちんと掃除していたか少し不安になったが、お互いどうでもいいことだろうと思考の中からその雑念を放棄した。
「お邪魔します、佐藤さんのお家って結構きれいなんですね。なんだか男の子の部屋って感じがしないかも」
 それはいつでも女を呼べるように普段から気を付けているから、当たり前と言えば当たり前の感想だった。むしろ先程のごみ箱に関する幾ばくかの悩みも、普段ならクリアしていることだった。飲み会の後に、僕の家に女が上がることなんて想定範囲内の出来事だったにもかかわらずそうしなかったのは、寝不足がたたっているからかもしれない。面倒な問題に適当な解をつけて片付けた。佐々木は余所行きの雰囲気のまま自分の行き場に迷っていたから、女受けがいい気がした座り心地の良いクッションを渡した。
「えー、これ最近流行ってるやつじゃないですか? すごい、私これ凄く気になってたんです」
 佐々木はそのビーズがふんだんに使われたクッションに身を預けた。クッションに座るとどうしても、自らがゆりかごに乗っているかのように、背中を丸めて前方斜め四十五度を向いてしまう。意図せずそうなってしまった佐々木を見て僕は笑った。佐々木は上着を脱ごうとしていた途中でクッションに腰かけたから、それがまた滑稽な格好で、笑った。
「もう、佐藤先輩って変なところで笑う癖ありますよね。不思議ですごく面白いです」
 飲み会の席で少し話しただけで僕の何が分かるのだろうと思ったが、僕は酒に酔っていた人間にそこまで正論で詰めるような、つまらない人間ではなかった。それに佐々木以外にもそう言われることは多く、いつもその時にはそんなことないよ、と常套句を放っていたし、その時もそうした。
 それからは別に何も面白いことはなかった。また思い出したかのように佐々木が酔ったふりをして誘ってきたから、ワンパターンな佐々木の表情をワンパターンだと思えるのは僕だけなのだと思いながら、僕がいつも一人で寝るベッドに二人で寝た。

 朝起きると昨日のことを鮮明に思い出した。酔っぱらっていた人間なら、昨日のことはせいぜいかけら程度にしか思い出せないようだが、僕は鮮明に思い出せた。そしてその記憶通りに隣には佐々木がいた。少しちょっかいを出してやろうと思ったのは、佐々木が寝ていては僕の話し相手がいないというのもあるが、こういう女はなぜかちょっかいを出されると嬉しそうにするからだった。やっぱり女の顔は涙より笑顔が似合っていると思うし、僕が泣かせると後始末が面倒だろうという心配があった。
 佐々木の頬を人差し指で小突く。佐々木の頬は柔らかく、指を受け入れるように窪みが生まれた。このまま佐々木が起きなかったとしても、頬はしばらく柔らかいままだろうから悪くはないなと思ったが、そうなるとやはり後始末が面倒だろうし、ここで死なれては僕に何かしらの容疑がかかるだろうと思い、突然怖くなって頬をまた小突いた。すると佐々木は目を無意識的に強く瞑り、外部からの攻撃を感じ取った。僕は佐々木が生きているのを確認して嬉しくなった。すると佐々木のことが急に愛おしくなって、その頭を撫でた。そのうち佐々木は起きた。
「もう、寝顔見てたんですか? 寝起きの顔も恥ずかしいから見ないでください、もう」
 佐々木は両手で自分の顔を覆った。僕は、もう、と女が言っている時はその拒絶の言葉にその文字通りの意味がないことを経験上知っていたから、寝起きの顔を見ることもできたが、寝起きの顔は普段の顔より少しまとまりがなくて、その顔を僕はあまり好きじゃなかったから敢えては見なかった。その代わり昨晩見た佐々木の顔を連想しながら頭を撫でて、耳元でごめんねと囁いた。佐々木はそうすると嬉しそうに上目遣いをするから、経験通りにキスをした。
大学に入ってからは受験勉強で得たことは何も使い物にならないという人がいるが、僕はそうでないと思う。やはり受験において一番重要なのはその学校の過去問を解いてその傾向を知ることであり、女においてもそれが常だった。別に世の中の女全てを僕の偏見によってカテゴライズしようだとか、そんな壮大な野望はなかったし、僕はただ一人、いや複数人いたとしても三人、それくらいの端正な顔立ちの女が僕のことを好きで、リードしてくれればよかった。ただ経験がものを言うということは、受験勉強で得た最大の知見だと僕は確信していた。現に僕は過去の演習で得た知識を大いに用いて、目の前の女性を意のままにしている。

「今気づいたんですけど、佐々木と佐藤って同じ漢字から始まりますよね。ふふ、ごめんなさい、どうでもいいこと言っちゃって。でも共通点があるのが嬉しいんです、喜んでもいいですか? ふふ。シャワー借りますね」
 佐々木は僕の目の前で、恥ずかしそうに下着を着た。佐々木は自分がシャワー室まで行く間、全裸であることを避けるためだけに下着を着た。僕からしたら、すぐに脱ぐのだからそのまま行けば面倒なことは何もないのにと思ったが、すぐシャワーを浴びるのだからとコンビニに全裸で行くことはないだろうと、あまり興味のない自らの質問を少し論点をずらして片付けた。
また佐々木は恥ずかしそうだったけど、自ら僕の目前で服を着た。どこかでそれが男に気に入られるテクニックだと知っていたか、前の男にそう教えられたか、はたまたそういう趣味かは分からなかった。少しだけ佐々木が気の毒になったが、僕の関わる話でなかった。またそのほかの衣類が散乱していたが、佐々木はそれに気づいて下着姿で衣類をさっとまとめた。もしこの瞬間を外から誰かが眺めていたら、僕はメイドに制服として下着の着用を強制しているように見えるのだろうと思い笑った。
「また変なところで笑ってる、佐藤さんってなんだかかわいいですね」
 人が笑うことは何らおかしいことではないと思うし、僕が笑うだけでかわいいと言われるのは全く理解できなかったが、好意的な感想だろうからその理由を問い詰めたりはしなかった。むしろ交友関係を築くうえで理由を問い詰めるのは、研究者気質で面倒な人間同士以外では排除すべき作業だった。僕もお返しで、綺麗な佐々木さんが僕の家にいるのが不思議でたまらないんだ、と気障なセリフを吐くと、佐々木はそれを聞いてまた嬉しそうな表情を浮かべた。一方僕は佐々木の下の名前を聞いていないことに気づいて、どのタイミングでその名前を知るべきかと悩んでいた。佐々木はシャワーを浴びた後人間らしい服を着て、もう一度目を瞑ったからキスをしてやるとうっとりした表情をして、そのまま今度は佐々木からキスをした。僕がその後佐々木の頭を撫でてやると、佐々木は子猫のようにゆっくりと目を瞑って気持ちよさそうにしていた。佐々木は名残惜しそうに部屋を出た。部屋の中にはまだ佐々木の匂いが残っていて、佐々木がまだ部屋にいるみたいに思えた。
 中高生での恋愛は初々しいし、難しいと思う。両想いというのは確率的に難しいだろうから、たいていは片方がもう片方に告白して、もう片方が喜んで、もしくは妥協しつつもそれを受け入れる。面倒なプロセスを経て、せいぜい続くのは三か月。土の中で何年も眠っていた蝉が一週間で死ぬのと似ているように思えたが、中高生は基本的にそのあとは死なないからあまりいい例えにはならなかった。
その点、大学生での恋愛はプロセスなど何一つないように思えた。特に僕の場合は、会って話をするだけだった。そこからは成り行きのまま、自然に二人きりになって、そのまま過ごせばよかった。大学生になるまで煩雑だった告白の儀式だなんてものも、めっきり無くなってしまってずいぶん楽になった。
 一人になった後ふと布団の匂いを嗅ぐ。佐々木の匂いがした。だけどやっぱり佐々木の下の名前は分からないままで、どのタイミングで聞こうものかと悩んでいると一件の着信が入った。僕はその名前を見て、一、二秒考えて出た。
「ねぇ、佐藤くん、今日の夜用事ある? うち行ってもいい?」
 それは一個上の西森さんからの連絡だった。西森さんももちろん女で、佐々木みたいな仲の深め方をしていた人だった。佐々木は二個下の女の子で、その子と関わったばかりだったから、バランスを取るために好意的な反応をした。
「もう、だからその話もさせて! ほんっとに大変なんだから! じゃ、私の好きなアレ、用意しておいてね、ばいばい」
 西森さんは、卒業論文の作成にひどく手間取っているようだった。だから卒業論文のことはいいのですかと少しだけおちょくった。だけど僕は西森さんに、あなたのすべきことは僕の家に向かうことでなく卒業論文だと伝える気などさらさらなかった。伝わらない説教ほど両者が苦痛になることはないし、僕という人間も誰かの都合のいい存在だと、昔から分かっていることだった。だいたい、人は誰かの重要な存在になりたがる。それがすべてを面倒にしているのであって、その考えを捨てて皆都合のいい存在としてい続けてくれれば、僕がもっと生きやすくなるのに。世界は相変わらず知らんぷりをしていた。僕も僕で世界にはあまり期待をしていなかったので、都合のいい存在として生きることに変わりはなく、佐々木の匂いが残った布団に消臭剤のスプレーをかけた。

「やっほー、もう疲れちゃったよ、来るの久しぶりじゃない?」
 すぐに夜になって、西森さんは少しだらんとした服で僕の家に上がり込んだ。波を描く凹凸が歩くたびに揺れ、気づかないうちに僕を誘って惑わせた。西森さんは僕の家に何度も遊びに来ているから、僕の家の電気の所在も把握していて、僕が部屋に着くころには電気が煌々としていた。僕が冷蔵庫でいつもの発泡酒を取り出して持っていくと、西森さんは持ってきていたピザをどこかからか出してそのチーズの濃い匂いを部屋中に充満させていた。
「そーそーそれそれ! さすが佐藤くん、気が利くじゃん! ほらほら、乾杯しよ?」
 西森さんは、自分の好みを僕に覚えられるのを非常に好んだ。そうするだけで大変機嫌がよくなるし、そうでなければ機嫌を損ねる、面倒な女だった。だけど面倒な女ほど手間をかければ簡単に意のままに操ることができることを、僕は過去の経験から知っていた。だから冷蔵庫に西森さんの好きなお酒とかをメモして、その通りにしているだけで、今から彼女は僕のものになるのだった。当然ほかの女も自分のことを覚えてもらっていると嬉しがっていたから、他の女の好みもこのメモにすべて記載してあった。つまり、僕は西森さんの好みなど全く覚えていなかった。そして僕が重要なメモのおかげで好みを覚えているように見せていただけとは知らず、西森さんは鬱憤を晴らしながら飲んだ。
「ほんっとにやりたくない、卒業論文とか本当に必要なの? 私はこんなために大学入ったんじゃないつぅの、ねぇ? 佐藤くんもそう思わない?」
 西森さんは酔いが回ってしまって、反対に呂律が回りづらくなりながらも自らの苦境への同意を求めた。やはりこういう時の女は根本的な解決など望んでいなくて、その一瞬一瞬を切り取った慰めだけを望んでいる。僕は西森さんの話を聞かないこともできたが、このようなシチュエーションで出た本音が後々重要な要素となることも知っていたし、相手の話を目を見ながら聞くことは人としても重要なことだったから聞いた。西森さんは変にくねくねしていた。
「ねぇ、佐藤くん、眠くなってきちゃった、佐藤くん、佐藤くんさ、彼氏なんだから、お姫様抱っこしてよ」
 西森さんは普段頼れる先輩として後輩からの信頼も厚かったが、僕と二人きりで酔うと甘えたがる傾向があった。そして僕の目の前にあるように、両手を僕の方へ向けてお姫様抱っこを求めた。こうなるのは今日が最初じゃなく、最初からこうだった。その初めての時、こんなに酔っぱらって甘えられるのも僕の前でだけだ、と言われてしまったから付き合ってあげると、西森さんはひどく喜んだ。西森さんは、僕の何人目かの彼女であることは知らなかったけど、幸せそうだった。
 僕がお姫様抱っこのためにしゃがみこんだ時だった。西森さんは、僕の鎖骨当たりにその唇を当て吸盤のように吸い寄せたようだった。
「えへへ、キスマ、つけちゃったぁ、もう、佐藤くん、どこにも行かないで、ぎゅーってして、してて」
 僕は一瞬何をされたのか、全く分からなかった。西森さんがドラキュラの類でないかと疑ってしまうほどだったが、その、キスマ、とやらの正体を見てからは、あぁただの吸引跡のことかと安心することができた。
西森さんは独占欲が強かった。だから抱きしめたり、キスをするのに執着した。西森さんの腕が僕の背中に回れば、その上からかぶせるように僕は腕を西森さんの背中に回す。僕と西森さんの距離はより一層近付いて、お姫様抱っこどころでなくなった。僕は珍しく僕を抑えることができずに愛を伝えると、西森さんは僕の耳元でふふふと笑って、僕の頭を撫でて耳を噛んだ。あまり痛くなかったけど、人が人を噛むなんて初めてした経験ですごく驚いた。
「ふふ、やっと佐藤くん、私のこと、自分からぁ、好きって言ったね、へへへ、これはぁ、記念ね、へへ」
 酔いが回りすぎて内容さえも何を言っているのか分からなくなってしまった。とすると、今のは記念の甘噛みということになるのか。でも甘噛み自体に何の意味があるか分からなかったから、とりあえず抱きしめてあげた。
「ね、トイレ、トイレ行ってくる」
 時間を忘れ抱きしめていたのに、西森さんは用事を思い出したかのように腕をほどきトイレへと向かった。少しだけその可愛さが名残惜しかったが、すぐに戻ってくるから我慢することはできた。西森さんは、服を脱ぐと電気を消したがるから、それに応えるために電気のリモコンを探していたその時、一件の連絡が入った。その連絡主を確認して僕は冷や汗をかいた。
「すみません、佐藤さん。私忘れ物しちゃったみたいで。今から取りに行きますね」
 僕は非常に焦った。まずい、今までうまく複数人と交際してきたというのに、これでは佐々木も西森さんも、その他のキープの女からも見捨てられてしまう。まずい、非常にまずい。目が上下左右に動き回り、視界が揺れ動く。僕が築き上げてきたものすべてが崩れてしまう。いかにその形、色、そして動機が不純だとしても、僕はこの大学生活を壊してはならない、何人にも壊されてはいけない。
「あれ、佐藤くん、どうしたの、顔色悪いよ、具合悪い?」
 その焦りは酔っぱらった西森さんに簡単に悟られてしまうほどだった。冷や汗が頬の輪郭をたどって、顎のあたりから滴り落ちる。目が揺れていないのに揺れた視界が、より一層僕の意識を不安定にした。酒を飲んでいないのに千鳥足になって、僕はその場で膝から崩れ落ちる。どうすればいいのだろう、ショート寸前の思考回路を抱えながら、チャイムの音が鳴った。僕の目の前が真っ暗になった。

「はぁ、はぁ、はぁ」
 周りの空間から区切られた箱の中で、男は一人息を切らした。現実世界から物質的に隔離されて、外界の光を全て遮った箱の中。今まで感じなかった重量感を頭に感じて、手を頭に当てる。プラスチックの確かな感触は、男を現実世界に引き戻した。
「そうか、はぁ、これ、ゲームだったか、はぁ、はぁ」
 目の前には、正確にはその世界には、佐々木も西森さんもおらず、男は大学生ですらなかった。
 プラスチック製のVRセットを頭から外す。そのプラグがコンセントから抜けてしまって目の前が真っ暗になってしまったようだった。あの時の甘噛みも、微弱な電流が似たような感触を与えただけだった。ただ、男はこの現実を悲観的なものと捉えず、むしろ男の人生に何ら影響を与えない、仮想世界での修羅場から逃れられたことに、ただただ胸を撫で下ろすばかりだった。
「セーブは、佐々木と会った飲み会の前か、次はもっとうまくやる」
 一度はうまくさせなかったプラグが、二回目でぴったりささった。


「姉はずっと。」(3000字程度)

ある漫画を読んで、ぶわーっと書いた小説。最近全然小説書いていない。やっぱり小説、すごく書きたいし書かなきゃいけないんだけどな。これは今年作ったやつかな?ブワーッと書いた小説は、だいたい主人公が女の子に振り回されている。


 ちょうど一ヶ月前、姉は行方不明になった。その日から、誰も姉と連絡を取ることができなくなった。朝が訪れても彼女は訪れなかった。両親は警察に捜索願を出した。それ以来両親は日を追うごとにやせ細り、心労が目に見えて増大していくのが分かった。食事の時には、姉がいつ帰ってきても良いようにと、いつも姉が座っていた位置に四人目のご飯が添えられた。私にはそれが姉に対する希望であり、お供え物であるように見えた。相反する二つが同時に存在していた。

 姉はとても綺麗な人だった。高校生にしてはかなり大人びた風貌で、肩まであった髪をいつも綺麗に整えるために、風呂上がりに一時間くらいかけてドライヤーを掛けていた。腕が疲れたら少し休みを繰り返すから、夜はいつも洗面所に姉の姿があった。
 私と姉は同じ高校に通っていたが、二つ下の私にもその評判が耳に入ってくるくらいモテた。私のもとに姉の趣味などを探りに、知らない男の先輩がやってくることもよくあった。かといって私は彼らに姉の趣味を伝える義理もないから、いつものドライヤーをかける姿を思い出して、「姉はすごく髪に気を遣っているから、そういう贈り物が良いかもしれません」と言えば彼らは大抵満足して帰った。そのせいで姉は色んなシャンプーやヘアオイルだとか持っていた。彼女はどうしてそれらが贈られるのかよく分かっていなかったが、一度は使って、二度は使うことなく、結局お気に入りのものばかり使った。余り物は家族共用のものになった。
 当然だが、姉は日常的に告白を受けた。ラブレターを貰うこともあれば、夜景デートに誘われることもあり、いきなり深夜に電話が来ることもあった。そして姉はどうやら、告白を断ることは一度もなかったようだった。それを知っているのは、多分私だけだ。
 姉は恋人ができると必ず家に連れて来た。共働きの両親は夜遅くまで家におらず、だいたい私が先に家に着いて私と姉の二人分の晩御飯を作り、姉の帰りを待った。ただ姉が恋人を連れて帰るときはいつも姉の方が帰りが早く、私が帰る頃にはテーブルに晩御飯が並び、ママとパパには内緒ね、と書き置きが残されていた。見慣れぬ靴が不自然に並べられて来訪者の存在に気づいても、家の中はいつも不思議なくらい無音に包まれてしまう。姉はおろか、私さえもここにはいない気さえするほどに静まり返る。それは静謐というより奇妙と形容されるべき雰囲気が家の中に居座り続ける。陽が沈み始める頃、その雰囲気がふと消え去り、姉の恋人は家に帰る。その帰り際、姉は必ず私に恋人を紹介し、初めてその人の雰囲気を知るのだ。恋人の雰囲気は多種多様だ。真面目そうな人もいれば、ちゃらついている人もいるし、根暗なオタクみたいな人もいるし、明らかに爽やかなスポーツマンみたいな人もいる。姉の趣味はよく分からなかった。
 ただ一度だけ、姉が女性を連れてきたことも会った。そして私が唯一姉の連れてきた人間と話したのもその時だった。その日も家に帰るとやはり異様な雰囲気に包まれていて、ああ今日も誰か知らない人が家にいるのだと思った。しかし、その存在はすぐ明らかになった。
 リビングに向かうと姉ともう一人女性がいた。その女性はソファに倒れかかり、呼吸を荒げ、頬を真っ赤に染めていた。姉はその隣で、見たこともないほどに焦り切った表情をしていた。
「由紀! 早く水持ってきて!」姉は声を荒げた。叱られたわけではないが、姉にしては珍しい語気の強め方に少しすくんだが、言われた通りに水を汲んだ。
 水を持っていくと姉はその女性の口へとコップを運ぶ。しかしその女性は首を振って、姉の目をじっと見るのだ。私にはその目は見えなかったが、きっと媚びた気持ちも、卑しい気持ちも無いまま、素直なままで姉のことを欲していた。
 察した姉はそのコップを自らの口に運び、その女性とキスをした。少し頬張りすぎたようで、その隙間から涙のように水が頬の輪郭を辿る。だが二人にとって世界は二人だけのものであるかのように、溢れた水にも、当然私にも、何の気もかけずにいた。そして私も、なぜかそのまま突っ立っていた。二人のキスは長かった。互いに腕を頭に回して、求め合っていた。私は決して目を離すことはなかった。 
 キスが終わるとその女性は私の方をようやく見て軽く会釈すると、「お風呂を冷たい水で満たして」と私に言った。戸惑いつつも私は風呂場へ急ぎ、思い切り蛇口をひねった。水が勢いよく放たれ、浴室の中に単調などぼぼという音が鳴り続ける。私はいつしかぼーっとその水流を眺めていた。が、姉の声でまた部屋に呼び戻された。二人で彼女を抱きかかえて、風呂場まで連れて行った。
「突然ごめんね、お姉ちゃんもパニックになっちゃってた」
「いいよ」家の中がまたいつもの異様な雰囲気を取り戻したみたいだった。
「たぶん、脱水症状を起こしちゃったみたいなの」
「それなのに、浴室に?」
「じゃあ、熱中症かな」姉の演技はいつも下手だった。
「なにか、隠してない?」私はいつも見逃している演技を見逃さなかった。
 姉はバツの悪そうな顔をして、少し迷った後、言った。
「あの子はね、実は人魚なの」

 姉がいなくなったのは、それから三日後のことだった。他のみんなには青天の霹靂だったろうが、私にはその日からなんとなくの予想がついていた。ただその予想はあまりに浮世離れしていたから、思い返しては文字通り頭を横に振っていた。
 いなくなった日、私の机に書き置きがあった。姉の字だった。

 「私たち、ずっと一緒にいると思ってたけど、ずっとって、もしかしたら来年のことでも、明日のことでも、一分後のことですらないのかもしれないね」

 海岸線に沿って私の車は走る。少し開けた窓から潮風が入って心地良い。日は出ていないが、曇天でもない。どっちつかずの天候は、私は嫌いじゃない。
 到着した崖から見える波打ち際は想像より激しく、白い泡を猛烈に立てながら沖へと戻っていく。この海の中で魚が、あの人が、姉が、きっといる。
 私はあの日の書き置きを紙飛行機にして折った。ルーズリーフの切れ端だからきちんと折ることはできないけれど、それでもなんとか折った。
 紙飛行機を構える。やはり潮風は強くて、まだ飛ばしていないのにその翼が上下になびく。それでも私は紙飛行機を飛ばした。紙飛行機はびゅうびゅう吹く風に揺られて、回転しながらほぼ垂直に落ちてゆく。そしてすぐに消えていった。その様子を、それが海に消えてもなお、ずっと見ていた。
 姉はずっと、私の姉だった。


「菜の花」(1000字程度)

ぶわーっシリーズ。これも今年。


 僕の嫌いな菜の花の匂いが徐々に近づく車内では、何の言葉も生まれない。僕は真面目に運転して、彼女はただ窓により掛かるように外を見ている。寝ているかどうかも、後ろ姿だけはわからない。ただその姿だけでも、城に閉じ込められて、助けてくれる王子様を待っているような無力感、寂寥感の中にすっぽり包まれてしまったようだった。
「もうすぐ着くよ」僕は申し訳程度に彼女に伝える。
「そう」彼女はこちらを振り返りもしない。「本当に菜の花ってあんなに咲いているの?」
「うん、そりゃうるさいくらいに」
「うるさいくらい」彼女は確かめるように繰り返す。「うるさいくらいねぇ」
「そんなに変なこと言ったようには思わないんだけど」
「別に変なことは言ってないと思うよ、ただ、菜の花にうるさいなんて言う人いないでしょう? あんな綺麗な花、絶対自己肯定感高くて、きっと愛されることに何の違和感も持たないようなやつらだよ」
「そういう君も大概だと思うよ」僕がそう言うと彼女は何も言わずまた窓を見る。
 車を停めて少し歩くと、やっぱり菜の花は僕らを出迎えてくれる。というより、ようやく来たかねという表情で花も葉っぱも広げているように見える。そういうところがやっぱり癪だ。それでも自然に作られたとは思えないほど鮮やかな黄色で埋め尽くされた一面が目前に広がると、その人気にも納得せざるをえない。
 あれほど菜の花に毒を吐いていた彼女も、今では夢中になって顔を近づけている。麦わら帽子をかぶっているのも彼女だけだ。ふざけてコンビニで買った安物なのに、それがすっぽり彼女を包んでいる。
「あんなに言ってたのに結局見るんだ」
「せっかく来たんだから、もったいないでしょう?」麦わら帽子をつかんで顔を隠すように曲げる。声色は全く照れた様子もない。
「好きの反対は嫌いじゃなく無関心とも言うしね」
「それ、どういうこと?」
「……自分でもよくわからないまま言ってしまった」
「へー、まぁでも私来世は菜の花になってあなたに嫌われるよ、それまで待ってなよ」彼女は吐き捨てるように言って車の方へと歩き始める。
「もういいのかよ」
「うん、これもいらないからあげる」彼女は麦わら帽子をフリスビーのようにスナップを利かせ投げる。コントロールが悪く、僕の背を優に越えて弧を描く。そして一面に広がる菜の花畑の中心へ向かっていく。
 右方向へ大きく曲がる麦わら帽子を、僕は仰ぐ。後ろから彼女の笑い声が聞こえる。


「夢みたい」(1500字程度)

ぶわーっシリーズだと一番好きかもしれない。気障。


「あのさ、すごいもん拾っちゃったの。見る?」彼女は手の中に光る黒光りの正体を明かしたそうな、にやりとした表情を浮かべて僕を見た。
「どうせろくなもんじゃないでしょう」ちらりと見えたものからなんとなく目を逸らした。ところどころ隙間風が吹くようなボロ小屋なのに、むしろ熱気がこもってしまうのが、思考を妨害するように多量の汗が流れる。
「まぁまぁ、そう言わずにさぁ」彼女はそれを僕の手に無理やり乗せる。大きさの割に重量感を強く覚える。
本物だ。
すぐに表情をもとに戻しても一瞬はっとしたのを見られ、満足そうな彼女を見て少し腹が立つ。彼女にとってはそれも面白かった。
「男の子なら、みんなこういうの夏祭りで欲しがるじゃない。もっと喜んでも良いんじゃないの」
「あいにくそんな裕福じゃなかったので」
「あら、私も。おそろいだね」
「まぁ、そうですね」
「これから裕福になる見込みなんてあると思う?」
僕はすでに茹だってしまった脳みそを回転させて彼女の会話になんとかついていった。
「どうなんすかね、さすがに無理じゃないですか。だって今までしたこととか思い出してみてくださいよ。一つや二つじゃない、全部が全部最悪です。今更救われようったって都合が悪いっつうか」
「救われたいの? もしかして君、救われたいの?」彼女は興味津々にこちらに顔を寄せた。極限状態間近とも言える小屋の中を、彼女はアミューズメントパークとでも思っているのだろうか。
「わかんないです、でも金持ちになれば全部許されるんじゃないですか」
「許されるとか救われるとか、ずいぶん君は有神論者みたいなこと言うんだねえ」彼女は口角を思い切り上げて、弓なりの目元をさらに近づける。そして後ろの荷物にもたれかかるように倒れた。
「でもそうだよねえ、私も小さい頃お金持ちになればすべて許されると思った。大きくなったらいっぱいお金を稼いで、お祭りのお店全部回ってやろうと思ってたよ。許されるというか、それが夢というか」
「ずいぶんかわいい夢ですね」
「まぁそれしか考えられなかったと思うけど、私にもそんな夢見る乙女な時代があったってことにしておこうかな」伸びをして、ゴムのように伸び切ってしまったかのような彼女は、またむくっと起き上がった。「今はそのほうが夢があるよ」
「夢なんて、かなわないから良いんじゃないですか?」
「それこそ夢がないよ、そんなのは敗北者の台詞だよ」
「じゃあ僕らは勝者ですか?」
「いいや、私たちはただの逃亡者だよ。勝ち負けなんてない、そもそもリングになって一度も上がったことのない、リングの上の人からは意気地なしと言われ、ギャラリーからは臆病者、卑怯者と罵倒される、そんな人たち」
「めずらしく自虐的ですね」
「まさか、君と私は二人きりで、彼らの中を幸せそうにくぐっていくの。まるで結婚式のアーチみたいに」
「ずいぶん大層な夢だこと」
彼女はそれを聞いて笑った。そして笑い尽くした後、手に持っていた小銃のリボルバーを思い切り回し、僕の眉間に銃口を突きつけた。
「私は許される気も救われる気もさらさらない。このおかしな世の中を爆走するみたいに生きてやる。そうだ、それこそボニーとクライドみたいに。それが私の夢。ついてこられる自信はある?」
「手が震えてますよ」僕は彼女の手を支えるように握った。「どうせ僕らはそんなのになれっこないんです、でしょう?」
「いつからわかってたの?」
「わかんないですけど最初からですかね」
「ならここでおしまいだね」
「まるで夢みたいな終わり方ですね」
引き金が引かれる感触がした。


また頑張って書きます。ありがとうございました。

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