去年の短編「青く燃えている」

どうも、伊織です。突然ですが去年の夏に書いた小説を供養します。読んだり読まなかったりしてください。また新しいのを書いています。


左手にアルミホイルをぐるぐると巻きつける。指をぴったりくっつけたまま、すき間が生まれないよう注意して、入念に三重の銀色の壁を形成する。アルミホイルを紙切れのようにちぎり、その端を指先の方から内側に入れて、手全体を覆うようにする。右手の五本指でアルミホイルのぶかぶかした部分を押さえ、仕上げに左手の形をなぞる。そのころには左手の指に少しくらい力を入れても型はびくともしない。私はそれを、乱反射する光とともに異物として認識する。部屋の中に流れる絶望をながめた後、左耳にピアスをつけた。
全身鏡に映る私は、喪服姿にアルミホイルを巻き付けていた。ふざけた格好だった。いつものように、その上に巻きつけている包帯をつける。万物を拒絶するかのように守られた左手で、私はクローゼットを開いた。


私の左手が紙切れをひとたびつかむと、水面に同心円状の波がひろがるようにじわじわと風化して、やがて塵となって足元に吹き溜まりができた。
カオルは禍々しい現象を目の当たりにしたあとも、臆することはなかった。外界に触れつづけている左手に近づこうとして、それを私が制するほどだった。三メートルほどの距離を取って、彼女はその外から私の左手をじっと見つめる。アルミホイルの包帯の中で蒸れていたから、凝視されるのは少し恥ずかしかった。
それから彼女の持ってきた荷物は次々に風化されていった。ガムの包み紙、レジ袋、彼女の古着。彼女は一つずつ荷物が消えていくのを円の外から観察し続け、風化しきったことを確認すると、また新たに外から荷物を一つ投げいれる。その動作によって、塵が舞いあがる。その塵がかつてどのような形をしていたか、ふたりとも覚えていなかった。
手荷物がすべて塵になった頃、彼女は私の前に立ちふさがった。そして髪を左手だけで束ねて、それがどれほどの長さか私に示すように頭上に掲げた。彼女は私の目を見つめたままポケットからヘアゴムを取りだして、口にくわえ少しうつむく。両手を使い丁寧に束ねた髪をヘアゴムで固定する。ひらがなの「れ」のような、なだらかで美しい曲線を描く後ろ髪を、彼女はなぞる。
彼女は束ねた髪を、ポケットから出したハサミで切った。周りに髪の切れ端がはらはら散るのを、彼女は首をふって嫌がりながら、乱暴にかきむしるように髪の毛を直す。
「じゃあこれは消える?」カオルは切ったばかりの髪を私に差し出した。
「本当によかったの?」
「いいわけないじゃん、成人式まで伸ばしてたかったんだから」そう言いながらも、少し笑って「でも今日は仕方ないよ。今日は初めて神様に出会えた日だから」と結んだ。
私は困惑しながら髪の束を右手で受け取って、それを両手で握ると数十秒で消え去った。彼女はそれを見て、初めて笑った。雑にかきむしられたはずの彼女の髪が妙に整っているように見えた。


薄暗い部屋に、鍵を開ける音が届く。すぐに廊下が明るくなったのが見えた。
「またこんなに暗くして、目悪くなるよ」カオルは羽織っていたコートをハンガーにかけながら、言った。
「だって、あれくらいの方がちょうどいいんだもん、まぶしい」
「そんなこと言って、目が悪くなってからじゃ遅いんだから」
奥の方で生活音がする。レジ袋をあさる音、電子レンジの扉を開いてスイッチを押す音。同じ部屋の中で、様々な音が響き、私の生活に入ってくる。大きく伸びをして立ち上がると、後ろから声がした。
「またアルミホイルつけてたの?」
「つけてたのって、つけてないと危ないじゃない」
「そうだけど、お家の中でくらいはずせばいいのに」
「やだ」
カオルは少し不満そうにした。彼女の不機嫌そうな顔を見て初めて左手に目を落とした。ぎらぎらとした反射光が散らばっていた。
「執筆の方はいかがですか、せんせ」カオルは人が変わったように、真っ白の原稿用紙を覗き込んだ。
「もう見ないで、恥ずかしいから」
「恥ずかしいから見せないって、そんなのだめだよ」
「そうじゃなくて、見せられるものがないから恥ずかしいの」
「それでもいいじゃない、頑張りがすぐに見えなくたって。
ほら、ご飯できたよ」
カオルは私の右手を引いて、食卓へ連れてった。半額シールだらけの惣菜たちとパックの白米が見える。それらを惨めなものだと思ったことは一度もなかった。食卓だけじゃなくて、表面がぼろぼろ剥がれている中古のソファ、いつもご機嫌斜めなテレビ、滑り止めが剥がれたイス、何度直しても七分遅れに落ち着く壁がけ時計、一度も開いていないクローゼット。足りないものだらけの生活を私は愛していた。
「メンチカツ半分あげる」
「全部食べてもいいよ」
「でもカオルも好きでしょ?」
「私はもう飽きちゃったから。それに、神様に食べてほしくて買ったんだし」
「まだ名前で呼んでくれないの?」
「だって、私にとってあなたはずっと神様だから」
毎晩食卓に並ぶ同じ味付けの惣菜は、飽きよりも安定を大きくもたらした。私とカオルは、半額シールに縋り付いて日々を過ごしていた。赤と黄色の派手なシールの裏に、二人でちぢこまっていた。
「今日も大変だった、聞いてよ」カオルは仕事の愚痴を矢継ぎ早に言い放つ。私の相槌も追い越して、気色の悪い中年男性の悪口を、マシンガンのようにぶっ放す。態度だけは示そうと思ってうなずくようにするが、カオルは私の向かい側に座りながら、私を見ていないように思えた。いつもより長く響く銃撃音が、不満の度合いを物語っていた。弾が切れた頃、彼女はメンチカツを頬張った。
「そんなに大変だったら、無理しなくてもいいと思うよ」
「うん、それは分かっているけどさ」
「事が起きてからじゃ遅いと思う」
「別にいいの、病んでないし、何も減らないから」
「そんなことない、この際だから言うけど、きっと目に見えないものがすり減ってるはずだよ」
「そうだけれど」
私は正論だけで喋りすぎていたことに気づいた。カオルはうつむいていた。
「ごめん、言い過ぎた。今日は何も書けなくて、イライラしてるんだと思う」
「ううん、大丈夫」カオルは少し茶目っ気に笑うが、口角の筋肉を無理やり引っ張ったように見えた。すぐにその張力も緩み、ため息をついた。「でも、それだけじゃ、私たち生きていけないから」
沈黙が食卓に横たわった。そのまま食事は終わって、容器はすべて燃えるゴミに捨てた。
私はまた真っ白な原稿用紙の前に座った。ふとクローゼットを見る。開いたことのないクローゼット。触れたことのないドアノブ。
突然激しい頭痛が襲った。脳みそを思い切り押し潰すような感覚で、私は机に突っ伏した。カオルはそれに気づき、すぐに駆けつけてくれた。大丈夫? という声がかすかに聞こえるが、私のうめき声がそれをかき消して、言いようのないほどの激痛がすべてを掠れさせた。私は椅子から崩れるように落ち、うずくまった。重力が何倍にも膨れ上がったかのように、強大な圧力を感じる。立ち上がることもできず、頭を抱えて髪の毛を掻きむしり、のたうち回る。耐えきれずに床をも掻きむしり、爪に走る激痛とその間に削りカスが入り込む感覚を覚える。左手だけが、フローリングの床を滑ってしまう。
その後、差し出された頭痛薬を勢いよく飲み込むと、痛みは徐々に消え去って、数分後には大部分が引いた。カオルは私の頭をなでてくれた。髪と髪の間を、カオルの細くて長い指がすうっと通り抜けていく。
「大丈夫、大丈夫だからね。何も心配要らないからね。私がずっと付いていてあげる。何も心配しなくていいよ。不安になっちゃったんだね、ごめんね」カオルの吐息の温かいのを、左耳で感じた。私はまた原稿用紙の前に座ろうとするが、彼女は無言で後ろに引っぱり、遠ざけようとする。
「お願い。私を机の前に座らせて。もう大丈夫だから」
「嫌だ。もう今日はおやすみしよ」
「大丈夫、大丈夫だから」
「仕方ないなぁ」
そう言うと彼女は私の脇に腕を通して、駄々をこねた子供を運ぶ親のようにして、私を椅子に座らせた。そしてそのまま、抱きしめてくれた。
「今日は座っている間ぎゅっとし続けてあげる」カオルは私の肩に顔を乗せて、あどけない表情を見せた。
「カオル、腕、疲れないの」
「ううん、大丈夫、私はいいから集中して」カオルは私の左手に巻き付いたアルミホイルを撫で回した。
「そしたら原稿が書けないよ、押さえれない」
「そしたら私が押さえてあげる、私があなたの右腕にも左腕にもなってあげる」
私は大きなためいきをついた。
「今日は私の負け、カオル、もう寝ようか」
「やったー!」カオルは自分の頬を私の背中に擦りつけた。背中に伝わる摩擦の感覚は非常に優しかった。
私たちは引っ張られるように寝室に飛び込んだ。歯も磨いていなければ、お風呂にも入っていなかった。だけれども、そんなこと、私達には関係なかった。
「今日もかわいいね、カオル」私は右手で彼女の頭を撫でる。
「もう、そっちじゃない方がいい」カオルは上目遣いで言う。
「こっちだったらカオル、消えてなくなっちゃうよ」
「私はそれでもいいの」
「私は嫌だよ」そう言っても、彼女は私のアルミホイルを取り外し始めた。
アルミホイルを取り外して生身の左手が現れた後、彼女はその手首をすぐさま掴み、私を壁へとじりじりと追いやった。手首を掴まれた時点で抵抗する意思も消えてしまったが、残された右手にも指を絡められてしまった。二度と離れることのない鎖のように繋がれた私たちに、言葉など必要なかった。彼女の舌が、私の中へ入ってくる。互いに貪ろうとする舌に呼応して、二人の息は早くなる。手首はさらに壁へと押し付けられ、身動きも取れないまま、カオルはもう一歩前に近づく。彼女の体温を、鼓動を感じる。彼女の髪が揺れて、シャンプーの匂いが届く。目を開けると、カオルは目を瞑ったまま私に夢中になっていた。幸せが目の前にあることを確認した私はまた目を瞑り、時間からも見放されながら、二人だけの世界に入り浸った。
やがて私たちは、名残惜しそうに唇を離す。肩を上下させながら、呼吸する。
カオルの凛とした目がとろんとして、眠そうにしているみたいに見える。私にとって、それ以上に愛しいことなどなかった。
「ねえ、カオル」私はいつの間にか解けていた右手を彼女の頬に置いた。「足りない」
カオルは少し笑った。私も少しだけ笑った。そしてまた唇を重ねた。私の左の手の平は、何にも触れていないままだった。

カオルは私の左手にぐるぐるアルミホイルを巻き付けた。アルミホイルを一周させるたびに、彼女の右耳だけに付けたピアスも円を描くように揺れた。手持ち無沙汰な私はその様子を見つめながら、左耳のピアスを右手で外した。
それを見たカオルは「右手で外すなんて、やっぱり器用だね」と感心する。そうしないと生きていけないんだから仕方ないでしょ、と言うと彼女は、「反対の手を使うと女性らしくなるって、テレビで落語の人が言ってた」と言った。それを聞くと、さっきの自分の所作が恥ずかしくなって、いいから早く巻いて、と言うと彼女は笑った。
「でも、すごく似合ってるよ、そのピアス。ずうっとつけていてね」
カオルは私のピアスを撫でる。代わりに私は頭を撫でると、照れくさそうに目をぎゅっとつむった。銀色のリングは薬指になくても、少しもくすんでいなかった。
そのまま私とカオルはツインベッドに倒れこむ。その衝撃は古いベッドの許容量ぎりぎりで、ぎしぎしと音が大きく響く。
「じゃあ、おやすみ」カオルは紳士のように、私の銀色の左手の甲にそっと口づけをする。それを確認した私が部屋の電気を落とした。カーテンが外からの光をわずかに透かした。


カオルの左腕から、細長い骨が見えた。腕を包む皮膚が震えた。
「すごいねえ、本当にこうなっちゃうんだねえ」カオルはその先に端正な白い指があるかのようにうっとりとながめた。皮膚がじりじりと溶けるように消えていた。重くのしかかっていた酔いが醒めた。ふらつく足を引きずって、駆けよった。
「起きちゃった? ごめんね。けれどね、私、もう十分なんだよ」彼女は確かに笑った。私は、目の前で世界が終わり始めるのをただ見つめるしかなかった。
彼女は私の頭を撫で、頬を右手で覆った。
「どうせ最後には皆死ぬんでしょ? その事実に目を背けて毎日生きていくのは、私には向いていないの。ましてや動けなくなったり、好きな人がいなくなって寂しくなるのはもっと嫌だ。死にたいと思ったときに死ぬのが一番だよ。今日がその時、満月の日に死ぬって前から決めてたの。」彼女はまた笑った。「でもねえ、私があとどれくらい生きられるかは知りたい。ねえ教えて」
私は彼女の言ったことの大部分を、何度も拾ってはポロポロと落とし、そのたびに聞き直して彼女をこまらせた。聴覚を妨げるほどの鼻をすする音が響きつづけていた。それでも彼女は私の左頬を撫でながら、ゆっくり、何度も、言い直してくれた。
「人を消したのはあの一回だけ。あの時は八時間かかったけれど、カオルは小さいから六時間くらいかもしれない」
「六時間かぁ」カオルはそれを聞くとまた笑った。「案外短いんだねえ、もっと長かったように思ってたよ、眠っていたら気づかずに死んでしまいそうだ」
「ねえ」私は右腕だけで彼女に抱きついた。「本当にこのまま消えてしまうつもりなの? 私のことを置いてしまって」
「今まで散々消しておいて、今更寂しくなっちゃったの? 私の髪の毛だって消しちゃったのに。私だけ成人式行けなかったんだよ」カオルは私の左腕を自分の方に乗せた。
「そんなこと言ってるんじゃない」
「そっか、ごめんね。飲みすぎたから、訳わかんなくなっちゃってるかも、でも今日はそのままがいい」私が右手を握って彼女を叩いても、そうやって笑うのみだった。私はいてもたってもいられなくなった。カーテンを開いても、世界は夜の真っ只中だった。電灯もろくにない、最高密度の夜だった。私は物置きに走り出し、精いっぱい漁って、がらがらとなだれを起こした。あらゆるものをかき分けた。
あった。まだ何も書かれていない、大きな大きなキャンバスだ。勝手に買ったけど、特に使い道もなくて、そのまま放置されていた。転がりまくっている缶を蹴とばしながら、それを引きずり出した後、新品の絵の具の包装を一つずつ剥いで、彼女に渡した。
「ねえカオル。私の前から消えていなくなるくらいなら、私のために絵を描いて消えてよ」
「突拍子もないこと言うね。地獄変みたいなこと?」
「地獄変なら、消えていくカオルを私が描かないといけないじゃない」
「じゃあ最後なら一緒に描こうよ、あなたは私だけの神様」
少しだけ気まずい雰囲気が流れた私とカオルは、それをやり過ごすために少しの間見つめ合って、数秒経てば触れたかも忘れてしまうくらいの、短いキスをした。伝染したみたいに笑った。それを見てカオルも笑った。笑いきったあと、私たちは白いキャンバスを壁に立てかけた。壁に傷が入る音がする。それすらも私達には楽しくてしょうがなかった。
「すごい音したね、敷金とかやばいんじゃない?」
「あんたはもうすぐ消えてなくなるから関係ないじゃない!」
そうしてやっぱり、私たちは笑った。そうしながら、床をパレット代わりにして、青を出した。
「どうせ描くなら私たちにしか描けないものを書こうよ。私たちにしか見えないものを皆に教えてあげようよ」
「私たちにしか見えないものを他の人が見て、何考えるのかな」
「そんなの私たちには関係ないよ!」
大きいハケに思い切り青を付けて、かすれるまで線を引く。かすれても線を引く。乾いた感触が続いても線を引く。私たちにしか見えない線を引く。また青を付けて、思い切りハケを振ると飛沫が飛んで、返り血みたいに鮮やかに映る。飛沫は私たちの顔にも飛ぶ。分け合うように頬ずりする。絵の具が頬の上で広がる。それを舐めると、苦くて酸っぱい味がした。カオルも真似して、渋い表情をした。その表情が愛しかったのは、きっと満月のせいだ。
蓋を開けたばかりの青を、水を張ったバケツに思い切り出してみる。最初はマーブル状だったのに、かき混ぜると徐々に一色に染まってしまう。幼稚園児の描いた海みたいだ。私たちが忘れた海を、彼らはまだ覚えている。そして私たちふたりは、思い出した。
バケツにできた小さな水たまりにハケを浸して、私たちはキャンバスに向けて思い切り振る。壁に打ち付けられた色水が、沿って垂れて透き通って、床に落ちる。涙みたいだ。雫の軌跡が世界を滲ませて、何もかもを曖昧にした。
現在どこにいて、どこへと向かっているかさえ分からないままだった私たち二人は、解放されたのだ。
私は、青を口に入れた。口の中で痺れて、苦味がひろがった。カオルは笑った。私の頬に涙が伝った。彼女の舌が私の唇を割って入ってきて、青を分け与えた。鮮やかに染まった舌で、彼女は私の涙をすくい取った。
「絵の具まるまる一本飲み干したら、きっと今までで一番きれいな死に方になるよ。悲しくて、会いたくてしょうがなかったら、それ飲んで、こっちにおいでよ」
「じゃあカオルを見届けたら家中の絵の具全部飲んでやるよ」
そう言った直後やっぱり飲み込むのは厳しくて、二人そろって洗面所に向かってうがいをした。エイリアンが青色の血を吐いたみたいな気分で、何回も何回も笑った。さっきの言葉、捨て台詞みたいで格好良かった、とお互いに言い合って、私たちはまた笑った。笑うしかなかった私たちだ。
世界に私たち、一人ぼっち、二人きりだ。


目を覚ますと、一人ぼっちだった。
ひどい頭痛とともに上体を起こすと、無邪気な猫が走り回った後のように、散らかった部屋が目の前に現れた。大量の空き缶で床は埋め尽くされ、壁には大きなかすり傷、飛び散った青の絵の具、そして立てかけられた大きなキャンバスが立ちはだかっていた。
私は立ち上がった。その時に気を抜いて、左手を使ってしまったことに気がついた。しかし、周りには風化が始まったものもなかった。左手を見ると、不格好にアルミホイルが巻かれていた。
私は昨晩のことを思い出した。床を見下ろすと、大量の塵が人を象るようにあり、その右耳に当たる部分にピアスが落ちているのが見えた。取り返しのつかない出来事であったことを理解した。
しゃがみ込むと、塵の一部がわずかに飛んだ。指で触れても砂のような感触を返すだけで、少し前まで生きていたものの残骸には到底見えなかった。
私はその塵を、飛び散らないように慎重に手でかき集めながら、昨晩のことを思い出した。カオルが夜の仕事をやめた。そのお祝いをして、お酒を馬鹿みたいに飲んだ。はしゃいだ。気づいたら、カオルの左手が溶け始めていた。だけど、どうでも良くなって更にさわいだ。洗面所で絵の具を吐いて、馬鹿みたいに笑った。どうでもいいことしか覚えていなかった。
私は、最後にカオルとどんな言葉をかわしたか、覚えていなかった。
それなのに、カオルは私のすぐ傍に横たわって、暴れることなく、私を起こすこともなく、私の左腕を気遣って、そのまま静かに消えてしまった。
言いようのない絶望が、私にのしかかった。私の手の中で、カオルの破片が山を成した。もしかしたらこうやってかき集めること自体、彼女への冒涜のように思えた。
私はカオルのことを必死に思い出そうとした。すると、彼女にとって私に出会った事自体が、彼女の不幸に思えてならなかった。私は彼女の「神様」となって、ヒモ同然の生活を送り、彼女の心を病ませ、最終的に彼女の希死念慮を叶えてしまった。ひどい自己嫌悪に陥った。ずきずきと、頭痛が私を責め立てる。
そのまま私は座って、しばらくじっとキャンバスを見ていた。
青一色で描かれた絵は、遠くから見れば業火に見えた。私を含めたこの部屋すべてを燃やし尽くして、塵一つさえ残さず消し炭にしてくれればいいと思った。私だけでも消し去ってほしかった。私はアルミホイルを外して、左手で頬をなでた。手首を握った。首を絞めた。
私は風化もせず、ただ息苦しくなっただけで咳が出た。山になったばかりの塵が舞った。私はそれをまたかき集めて、ピアスと一緒に空の小物入れにひとまず入れた。
立ち上がり、キャンバスの方へ歩き出す。私の背より大きいキャンバスを上から下に舐めるように見た。近くから見ると、無数の飛沫が垂れ落ちて跡になっていることに気がついた。それから業火のように見えた青だけの絵は、線香花火みたいに儚く見えた。
少し落ち着いた頃、私はまたアルミホイルを新しく巻き直した。隙間が生まれないように三重にする。繰り返し続けているこの作業が、私を現実に押し留め、逃さなかった。
私のせいで変わり果てた、散らかし放題の物置の奥底に向かう。昔買った喪服一式が一つだけあった。同じくらいの背格好で、他に連絡を取る人もいない私たちだから、葬式はどっちかが死んだときの一回だけだね、と言って買ったものだった。
全身鏡に映る私はかなり滑稽だった。喪服姿で、左手にはアルミホイル、右頬はピエロのように青く染め上げられて、目元は赤く泣き腫らしていた。全身鏡自体にも青の絵の具がぐちゃっと塗られていて、その鮮やかな汚れがちょうどアルミホイルを覆うようにすると、私はいかにも愛する人を失った、かわいそうなだけの人に見えた。位置をずらすとまたアルミホイルが現れた。
顔を拭き、包帯を巻いた私の心は、思うより穏やかだった。彼女を追いかけてもいいし、もう少し後でもいいとも思った。けれども、今すぐ追いかけたとしてもいいように、落とし前をつけるべきだと思った。
逃げ続けていたクローゼットの前に立つ。開いたことのないクローゼット。そう思い込み続けていたクローゼット。一度だけ開いて、二度と開けないと誓ったクローゼット。ドアノブに右手を掛けようとして、躊躇した。だから私は、銀色のベールに守られた左手で、クローゼットを開けた。
大量の塵と血溜まりがビニール袋に詰められていた。回想する間もなく、きつい腐臭がしたから、急いで燃えるゴミに捨てた。どうでもいい人が死ぬなんてこんなものか。ばこん、という間抜けな音が、ゴミ箱を閉じるときにした。


カオルが入った小物入れを助手席に乗せて、海沿いを走った。夜逃げと呼ぶべきドライブだ。生きているだけで愛する人含めた二人を消した。どうしようもない、手遅れの人生だ。
けれども夜の海は私の方にも光を照り返してくれた。一キロでも先に進まなきゃならないはずなのに、私は夏の電灯にたむろする虫のように、その光に誘われて、浜の方へと車を走らせた。
潮騒に包まれた夜の海は、怖かった。母なるものとして恵みを与える穏やかな青でなく、むしろすべて飲みこんで消し去ってしまう悪魔のような海だった。漆黒の水面に白い光が走って、それすらも飲み込んでしまった。
神様だと思った。
誰かの足を両手で掴んで縋ってみたかった。幸せなまま死んでしまいたかった。少なくとも、カオルに寄りかかって寄りかかられて、それ以外の人生を想像したこともない私だった。
私がひとり綺麗に消えればいいと思い続けた人生だった。
カオルだけが生きてくれればいいと思い続けた人生だった。
私は乱暴に靴を脱いで、上着を投げた。
上着を投げた拍子に、何かが飛んでいくのが視界の端に写った。カオルに渡された青の絵の具だった。これも飲み込んでしまえばいい。そう思って拾い上げると、側面の注意書きが目についた。
【本製品はお子様も安心して使用することができます】
私はそれを見て、少し笑って、最終的に腹を抱えて笑った。
「誰だよ、これ飲んだらきれいに死ねるって言ったやつ」
海に身に向かって私は叫ぶ。
きれいに死ねると思ったら、実は死ねなかった。
神様だと思ってたものは、実はただの海だった。
海もカオルも、お騒がせなやつだと思った。
絵の具の代わりに海を手ですくって口に入れても塩辛いだけで、ただ不快なだけだった。でも、少し楽しくなった。
小物入れを開いて、カオルの一部を口に入れても、全く美味しくなかった。それでも私は無理やり、海水で飲み込んだ。潮の匂いと異物が口の中に入る不快感が喉で居座った。ざらざらとした感覚が、海水によって私の体内へと流されていく。
私にはそれが愛おしかった。
初めてカオルに触れられた気がした。
私は付けたばかりのアルミホイルを外し、そのまま左手で左耳のピアスを外した。触れられたピアスはすぐに黒ずみ始めて、眺めている間にぼろぼろになって半分に割れた。
私はそれを海に向かって思い切り投げた。落ちた音も聞こえなかった。
そのあっけなさに無理して笑った後、左手首を右手で思い切り握った。
せっかくあなたに触れられたと思ったのに、もう触れてくれないんだね。
顔を見上げると、海はより一層黒くなり、潮風が頬を切るのみだった。日が昇る直前の一番深い闇が、一生横たわって、私の世界が翳り続けるかもしれないと思った。
けれども目の前の景色が、鮮やかな青に見えた。
私は小物入れを閉じて、残った片方のピアスとともに彼女を閉じ込めた。あぐらをかいて、それを撫でながら夜明けを待った。少しだけ欠けているはずの大きな月が、ゆらゆら水面で揺れていた。
さざ波を立て続けながら、海は青く燃えている。

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