文通の思い出


母方の祖母の兄に文通相手を頼まれた時、私は彼に私の生活や関心について自由に綴ることにしていて、彼の反応を気にせず書き殴ったものを月一で送り、そういう手紙でも彼には喜ばれたから、いつしか便箋は絶え間なく続く思考の休憩所のようになった。

漁師家系の中では、彼はずいぶん賢く、時代と家計が許せば大学に通っていたような人だったと、親戚一同口を揃えて私に伝えた。もしかしたら私と同じような人だったのかもしれない、と考えることもあった。彼は私が大学に進学したことを大いに喜んで、資金の援助までしてくれた。

彼も本が好きだった。手紙が届くと、彼の残された体力から筆を執ることは難しく、母親への電話かLINEが返信代わりとなった。その時彼がパールバックの『大地』が好きだと聞いて買った。しかし4冊に及ぶ長編は私には難しかった。そのことを正直に手紙に書くと、彼はむしろ嬉しそうだった。

そのころ僕はカフカを好んでいて、彼の、父親に向けた長い長い手紙を想起しながら、できるだけ書き直しをせずに、筆を止めずに手紙を書き続けるように努めた。立ち止まる時間が長いほど、嘘偽りを多分に含む気がしたし、彼にそれを使うのはやはりナンセンスだと考えていたからだ。

そんな手紙を読み返したい気持ちはないわけではないが、もう手紙がどこにあるかもわからない。棺桶の中にもなかった。彼の娘が引き取ったかもしれない、とも思うが、私の手紙を大事に取っておくこともないだろうと思うし、やはりどこかで捨てられてしまったのだろうと、今は思う。

引っ越しのために部屋を掃除していると、書きかけの手紙が出てきた。一周忌の時に書き始めて、宛先に迷って途中でやめた手紙だった。その手紙の中で、私はずいぶん無邪気でわがままな文章を書いていた。

当時もらったばかりの万年筆で、その書き心地を語りながら、大切な人との会話を綴っていた。万年筆を握るだけで文豪になった気分だ、と伝えればその人は、何事も形から入るのが大事だから、と返した、そうだ。

僕はその会話を覚えていない。多分その人も覚えていない。ログにも当然残されていない
ただその会話は、忘れ去られていた書きかけの手紙によって、思い起こされた。その会話は私にとってやはり大切なもので、その手紙を書きかけのまま、引き出しに戻した。また誰かと文通することを楽しみにしながら、青い便箋を買った。

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