月明かり


 冷たいものは目を覆い、熱いものは視界を飲み込んだ。
 真路は見慣れぬ土地をそれでも足元を見ながら歩いた。
 歩を進めれば大きな足跡が一つ二つ、三つ四つ。人影の見えない早朝に真路は一人、平坦な道をでも未踏の雪山を登る者のように一歩一歩確実に踏み締めた。
「お兄さん、こんな早朝から散歩とは健康的でよろしいですね」
 白髪豊かな老婆は言った。
「小雨とはいえ濡れては風邪も引いてしまうでしょう。私が温かいものでも拵えますからウチにおいでなさい」
 そう言って老婆は片手に持っていた真白な傘を真路に手渡した。
「さ、行きますよ」
 踵を返し足早に進む老婆に真路はついて行った。伸びた背筋としっかりとした足取りが正面で捉えるよりはるかに若々しい印象を与えた。
「おばあさんが風邪を引いてしまってはいけません」
 隣に追いついた真路は老婆のはるか頭上で傘を開いた。
「ありがとうございます。でも大丈夫ですよ、ここの天気には慣れていますから」
 老婆はフードを被り言った。
「こちらへは初めてですね?」
「はい」
「お日様が顔を出す日があるとよいんですけれどこの時期は雨ばかりですからね、どうでしょう。こちらにはどのくらい滞在するおつもりで?」
「決めていません」
 真路は言った。
「そうですか。それなら覆う蓋も綺麗に開ける時が来るでしょう」
 老婆は真路を見上げ言った。
「その傘はあなたのための傘なのですからその役目を果たさせてやらないと途端に路頭に迷ってしまいますよ」
 そう言って老婆はポケットから傘と同じく真白なハンカチを取り出し真路に手渡した。
「ここにいる間はあなたのものですから」
 真路は受け取り細長く丸め握り締めた。
 二人は言葉を交わすこともなく木造建築が建ち並ぶ城下町然とした一本道を歩いた。
「さて、着きましたよ」
 道沿いに突如として現れた、一見すると目と鼻の先にある山から一区画そのまま運んできたような木々が鬱蒼と生い茂る小ぶりな森のようなものを指差した。老婆は暖簾を潜る要領で顔にかかると見える木々を分け、真路を手招きした。
 傘を閉じ老婆の導きのままに真路はその暖簾を潜った。
 ざっ。
 足元の感触を一度確かめすぐに真路は頭上を見遣った。
「立派な木々のおかげでここは屋外にある屋内として機能しているのです。雨も風も通しません。お日様は歓迎しますけれど」
 老婆はそう言って真路を見遣り口元に手を当てた。
「あちらが正真正銘のお家ですから、お入りくださいな。奥に暖をとる場所がありますからそちらで寛いでおいてください。直に紅茶をお持ちしますから。お好きかしら?」
「はい、ありがとうございます」
 老婆の雲のように滑らかな白髪のうねりをそのまま再現したような白壁に四方を囲まれた建物の扉を開き、老婆はまた真路を手招きした。
 外壁と同じ白で統一された壁と床。入り口横にコンロが二つに小さな流し。奥には白煉瓦で作られた本格的な暖炉。その前に丸テーブルとそれを挟むように二つの揺り椅子。あとは吊り下げられた剥き出しの電灯が一つ。それ以外には何もないとても簡素な空間だった。
「土足のままお入りください」
 真路はでも踵と踵を打ちつけるようにして砂を落とし中に入った。
 湯が沸く重くしっとりとした音、暖炉が奏でる控えめで乾いた音色。とても静寂な空気が小さな空間を満たした。
 真路は揺り椅子に浅く腰掛け入り口の方を見遣り、自分の足跡が薄く八つあるのを数えそのまま暖炉の炎を見つめた。
「お待たせしました」
 老婆は暖炉で燃える炎に似た赤みがかった紅茶を二つテーブルに置き揺り椅子に深々と腰掛けた。
「やっぱり、白、ですよね」
 真路は言った。
「やっぱり?」
「白いものばかりが周りにあるからカップも白いものだと思いました」
「そうですねえ」
 老婆は微笑んだ。
「あなた、お名前は?」
「シンジです。真剣の真に、路上の路で」
「真路さん。よいお名前ですね」
「おばあさんは?」
「おばあさんはおばあさんですよ」
「いえ、お名前でお呼びしたいです」
 真路は言った。
「珍しい方ですねえ。私はトキ子と申します。片仮名でトキと書きます」
「…トキ子さん」
 呟き姿勢を正した。
「寒くはないかしら?」
「はい」
「ここはね、私のお家兼仕事場ですの。ここで写真を撮り始めてもう七十年近く経つのかしら。真路さんからしたら途方もない年月かもしれませんね」
 紅茶を啜りトキ子は目尻に綺麗な皺を作った。真路はトキ子の露出している手と顔を少しの間見つめた。
「僕にもそうして皺を刻み込んでいけるのでしょうか?」
 真路はトキ子の目を見て言った。
 トキ子はまたゆっくりと皺を深くした。
「いえ、その、無礼に聞こえてしまったかもしれませんが、そういう意味ではなくて…」
「大丈夫ですよ。真路さんには立派な皺が刻まれる時がこれから長くあるんですから」
「いえ、その…」
「いいんですよ。わざわざ言葉にする必要はありません。物事を決着させることはよいことでもありますけれどこの場所ではそれは必要ありません。それに真路さん、ご旅行中でしょう?」
 真路は口を固く閉じ暖炉の炎に目を向けた。
「一見すると奇異に映るこの場所は、私の夫が私のために建ててくれました。それはもう二十年も前のことです」
 トキ子は真路の見つめる炎を見つめ言った。
「真路さんの優しさに少しばかり甘えてもよろしいかしら」
 そう言ってトキ子は不意に目を閉じた。
「夫と私はこの町で出会いました。遠い昔のことですけれど町並みは今とあまり変わらず、少々の人々の往来を思い描いてもらえればもうそれは私が若かった頃の町です」
 真路はトキ子に倣って目を閉じ部屋を満たす静けさに耳を傾けた。
「私は醤油蔵の三女としてこの町に生まれそれ以来ずっとこの町に住んでいました。いよいよお見合いをしないかと父がその話を持ちかけてきた時分に、夫は旅人としてこの町にやって来ました。
 旅人はその頃沢山いらしていましたけれど彼らの目当ては歴史あるこの町の景観でしたから、その中にあって彼は目を引く存在でした。散策するでもなしに一つ処に立ち道行く人々をカメラに収めていました。何日も何日もそういうことをしていましたから私は気になり父に尋ねてみました。
『あの方はどうしてずっとあそこで写真を撮っているのでしょう?』
 そうすると父は、
『写真というものは見る者を愉しませたりまたは何かを考えさせたり、その一枚でも沢山の表情を持っているだろう。そうしてまたその写真を撮る写真家もその一瞬を収めるために命を燃やしているものだから、トキ子にとってはずっとあそこにいる変な人かもしれないけれど、彼はきっとあそこにいるように見えてあそこにいないんじゃないかな』
 そのようなことを言いました。私は初め父の言うところを理解できずにいましたけれど、彼と知り合いお話をするようになって、何度もその言葉を思い出すことになりました」
 揺り椅子に深く腰掛け寝ているようにも見える真路の表情を認め、トキ子は続けた。
「父はまた私に、
『気になるのならトキ子から話しかけておいで。面白い目をしている者は口を開けばまた面白いもんだぞ』
 と言いました。彼がどういった時にシャッターを切るのかと興味はありましたから、話しかけるのはとてもよいことだと思いました。
 翌日私は変わらず居る彼に話しかけました。
『お兄さん、どのようなお写真を撮っていらっしゃるのでしょう?拝見するのは可能かしら?』
 彼がカメラを構えていない時に話しかけました。見知らぬ、それも歳上と見える男の方に話しかけるなんてことはそれまでありませんでしたから、前日に幾度か練習し口に慣れさせておきました。それでも少し早口になっていたような気がします。
『もちろん。お嬢さんのお眼鏡に叶うかな』
 そう言って彼は鞄から一冊のアルバムを取り出しました。開けばそこには、道を俯いて歩く人の姿を真横から写したもの、真正面から写したもの、その二種類ばかりが収められていました。私は正直に言いました。
『モノクロで切り取られた彼らはおそらく私が道で実際に見る彼らより陰影が誇張され暗く見えます』
 すると彼は白い歯を見せ言いました。
『伝わってよかった。お嬢さんも撮ってみない?』
 私はどうしてわざわざ暗く見えるものを撮らないといけないのだろうと釈然としませんでしたから、
『どうしてこの構図ばかりを撮るのかしら?』
 彼の白い歯が隠れるような言い方をしたかもしれません、そう尋ねました。
『お嬢さんはどういう写真が撮りたい?』
 そう尋ね返されました。
『どうせ撮るなら笑っている表情を撮りたいと思うわ』
 言うと彼は、
『それはどうして?』
 また尋ねました。
『見返した時にまた笑顔になれるでしょう』
 彼はまた白い歯を見せ一つ頷きました。
『お嬢さんが撮ったその写真はその被写体の方と接点を持ってから撮ったものだね?』
 私は刹那思案し、その通りだと頷きました。
『どのようにしてその方と接点を持ち撮ることになったのか、そしてお嬢さんがカメラを向けどのようにして笑顔になったのか。そこを覗ける写真が撮れそうだ。是非とも見てみたいね』
 私はなんだか拍子抜けしただ彼の顔を見つめてしまいました。
『僕はどうしてかな、一人でいる時にしか見せないような一見すると暗い表情に映るものに惹かれるんだ。それに僕は被写体の方と接点を持ちカメラを向けても彼らの表情が嘘に見えてしまうんだ。それはひとえに僕が未熟なだけなんだけどね』
 彼はそう言ってファインダーも覗かず私を撮りました。それが彼が私を撮った最初で最後の写真でした。それを私は果たして目にすることはありませんでしたけれど、彼の言う嘘の表情ではなかったと信じています」
 トキ子は幾度もシャッターを切ってきた雄弁な手で真路の揺り椅子をそっと押した。浮き出た血管、うねる皺。それらとは対照的に薬指に嵌められた指輪だけが炎を照り返した。
「初めて彼と会話を交わしてから道を歩いては、俯き加減に歩を進める方々が目につくようになりました。背筋が伸びた方は凛として美しいだけでなくどこか自発的に歩いているように見えました。それと反対に下を向いて歩く方はどこか歩かされているような印象を受けました。私はそのことを彼に伝えました。
『そうだとしたら彼らはどこに向かっているんだろうね』
 彼は言いました。
『一枚撮ってみようよ、僕のカメラで』
 彼はそうとも言いました。
 そうして私は彼からカメラを借りた翌日、ファインダーを覗きその瞬間を逃さないようにずっと目を凝らしていました。
 数日後、現像していただいた一枚を彼の元に持って行きました。
 私が撮ったのは一人の男性でした。その男性は下を流れる川をちらちらと覗きながら橋の上をゆっくりと歩いていました。私はそれを橋を渡りきった所から見ていました。彼は私がいる所まで近くと左右を一瞥し左の方へまたゆっくりと歩いて行きました。私はここだと思い彼が一歩踏み出したところをカメラに収めました。ちょうどそれは彼を真横から捉えたもので、刹那背筋が伸びたところでした。
 私はその一枚を撮る前後、それは一瞬かもしれません、その男性のことを考えていました。男性のこれまでとこれから、また彼から見て右を選んだという今。そして選んだ時の束の間の希望。想像すればきりがないですけれど、私の中で男性を主人公にした物語が進行していくのを感じました。男性の目を持った私が頭の中で歩き出すのを感じました。
 私は彼に写真を見せた時、言い訳をするようにその写真について一息に説明をしました。恥ずかしかったのです。彼は言いました。
『お嬢さんにしか撮れない写真だよ』
 私はお粗末なお世辞を言うもんだと憤慨しそうになりましたけれど、彼がそう言って目を瞑った姿が、母の背中で眠る赤子のように見えましたので私も目を瞑り彼を感じました。そしてそれからまた口を開きました。
『伏し目がちに歩く人がいたとしてもそれは単に考え事をしているだけなのかもしれないし、足元に何かいるだけなのかもしれないし、一口にこうだとは言い切れない。その人がどう映るかは他人である僕の主観であって希望的観測に胡座をかいているだけでしかないんだよね。僕は分かりやすい外見の特徴から無意識の内にその人はこういう人だと判断してしまっている。それはとても悪い癖だ。煎じ詰めれば結局僕は僕の経験からしか他人を見ることができない』
 私は彼の言葉を頭の中で反芻しました。彼が遠くの山を見つめながら言葉を選んでいたのを認めましたから。
 私は男性の写真を撮った後、男性を追いかけて話しかけました。男性が右を選択し進んで行った時に見えた希望とは一体何だったのか、それを知りたかったのです。男性は言いました。
『あなたに見えた希望とは何なのでしょうね。私は私が歩を進めなければならない理由を見失っています。それでも捨てきれない何かを抱いているということは感じています。左右の道どちらを選ぶのかというとても些細なことでもそれは一つの選択です。そういう選択を迫られた時、選ぶのは私ですから責任は私にあります。そして同時に他人ありきである自分に気付かされるのです。この自覚こそ希望なのかもしれません』
 人を知るためには何か接点を持つことが大切だと思います。私たちは各々の『私はこう思う』が積み重なったところに立ち生きています。そしてその思うことを開陳することは決して恥ずべきことではありません。いくら一般に言われていることを知ったところで自らの経験から生まれる想いに勝ることはありません。擦り寄せる必要もありません。一般論なんていうものは誰かに任せておけばよいのです」
 トキ子は紅茶で口を湿らせた。
「少し話が逸れてしまいましたね」
 そう言って音もなく薪を焼べた。
「そうしてその写真を通して彼と私は普段は語られない部分を語るようになっていきました。まだ若かったということもあって語る自分というものに酔っていたということも多分にありましたけれど、それに気付かされるだけの余裕を彼は持っていました。そこに全身でもたれかかるように私は様々な話を彼にしました。
 ある晩、彼と私は川沿いの土手で夜空を見上げていました。私は綺麗な満月に目を惹かれていました。
『満月の下を泳ぐ雲は何よりも気持ち良さそうに見えるよね』
 彼は続けました。
『僕はああいう雲になりたいなあ』
 そう言った彼の目は月の光を反射して清らかで、綺麗なものを見る目はそれよりも綺麗に見えるものだということを初めて知りました。
 私はあの晩に見た景色を何十年と思い出します。月が綺麗に輝けばそのことを自ずと思い出すことができます。それは人生において大変に嬉しいことです。思い出に繋がる些細な物事が散らばっているとそれを収拾する愉しさもあります。要らないものはでも放っておけばよいのです、一時的に、あるいは永久に。そういう心持ちでいればよいのだと思います。
 そうして私は彼の妻になり、彼は私の家の醤油蔵を手伝いながら時間を見つけてはカメラを持ち出し、写真を撮ることを続けました。そうした生活が五年と続いた頃、父が、写真屋さんを開いたらどうかということを言いました。私は夫の目を通して見るものを見ることが好きでしたから、写真屋さんを開き沢山の方の姿を写すのは素敵なことだと勝手に心躍る気持ちがしていました。夫はでも面と向かって人の姿を写すことが苦手だからと二の足を踏んでいました。
『僕もカメラを持ち始めた頃、町の写真屋さんで働いていたことがあったんだけど、来る人来る人の笑顔を引き出すために、それもより自然な笑顔を引き出すためにと考え得る限りの努力をしているつもりだった。更地に立つ僕たちはまず言葉を交わすことによってお互いの足場を確認していくと思うんだけど、写真屋さんとしてお客さんを撮ることに慣れてきて忙しくなると、僕の中で出来上がったと思い込んでいる僕の土地に招かれた本当のお客さん、そういう存在として来てくれる方を扱ってしまうようになっていったんだ。見知らぬところに踏み入れた人というのは一抹の心細さを覚えると思うんだ。何かのきっかけでそれは高揚感に変わる可能性はあるんだろうけど僕にはできなかった。夜一人になった時などに思い返し内省するんだけど、それを抱きながらいつの間にか眠ってしまっていて、翌日には雲散霧消しているんだ。写真屋さんという箱の中で人と対面すると、無意識の内に作り上げた仮面を被っている自分に嫌気が差し、また同時にそれでよいんだと安住する。そういうことがしきりに頭の中で繰り返された。その中にあって僕は自分という幻想を追い求めるようになってしまった。自分なんていう実体のないものは元から存在していないのに、自分という理想を掲げることによってその現状に甘えることを許し、許すことによっていつの間にかその空虚さの中から抜け出せなくなっていた』
 そのようなことを夫は言いました。
 私はだから夫は道を行く俯いた方を追いかけているのだと思いました。過去の自分を実際に見ているような感覚を覚えるのだろうと思いました。夫の言う夫の未熟さというものはその未熟さを切り離しどこかに置いてきてしまっていない分だけ優しさに見えるのだろうと感じました。その優しさを秘めた目はだから綺麗なんだと合点しました。私は言いました。
『あなたが満月の下を泳ぐ雲になりたいのなら私はあなたにそうしてほしい。私はあなたの目が好きだから。写真屋さんを開くのはあなた一人ではなくて、私も一緒なのだから』
 それから夫と私は写真屋さんを開き、訪れる方々の写真を撮る一方でお節介だとも言えますけれど、夫の目に映り気になった道行く方々に声をかけそういう方が自由に出入りできる場所としてもその場所を使用できるようにしました。別段そこで何をするでもないですけれど、外を出歩く元気をまだ持っている人は漠然とした何かを探しているものですからそれでもよいんだと思います」
 トキ子はそっと立ち上がり真路に毛布を被せた。


「お兄さん、こんな早朝から散歩とは健康的でよろしいですね」
 男性は言った。
「小雨とはいえ濡れては風邪も引いてしまうでしょう」
 そう言って男性は片手に持っていた真白な傘を差し出した。僕はこの男性に会ったことがない気がしたけど、どこかで出会ったことがある気もした。僕は傘を受け取った。
「ご旅行ですか?」
 男性は白い歯を見せ微笑んだ。
「はい」
 僕は声を出したつもりだったけど男性には聞こえていないようで代わりに僕は頷いた。
「そうですか。ここはよいところでしょう。昔の町並みが残っていて見る目を愉しませてくれます。少し目線を上げて見渡せば自然が残っていて、悠々と過ごすことを見守ってくれているような気もします。そう思いませんか?」
 男性が僕たちの前方に広がる山々を見遣ったので、僕も男性の視線を追って山を見た。背の低い山の連なりに町を見下ろす威圧感はなく、大人が幼子と目線を合わせるように膝をついているような嫌味のない優しさを感じた。
「お兄さん、これからのご予定は?」
 僕は首を横に振った。
「そうですか。それなら少しお付き合いしていただけませんか?私は日課として毎朝散歩をしているのですが、お兄さんを連れて行きたい場所があるのです」
 男性はそう言ってまた白い歯を見せた。
 僕はその顔を見て男性に色がないことに気付いた。先に見た山にも色がなく見渡せば白と黒の二色しかないところにいることに気が付いた。色がないだけではなく全て輪郭がぼやけており、周りにあるもの全てが感覚的にしかそれと把握できていないらしい。
 目の前にいる男性は、短く切られた髪の毛に広い肩幅、僕と変わらない身長、そういうものから男性だと思った。僕は間違いなく男性の白い歯を見た気がしたのだけど、もう一度男性を見てもその顔はぼやけて表情が見えなかった。また、話しかけられたその声を思い出そうとしてもその声を本当に聞いたのかどうか思い出すことができなかった。耳に残る音がないことに気が付いた。僕は男性の方を見て、
「喜んで」
 と言ったのだがやはり男性の耳には届いていないようで僕はまた頷いた。
「ありがとうございます。近くに池がありますからそこに行きましょう。すぐそこですから」
 男性はそう言ったのだけど僕は僕の頭にその声が反響するのを感じなかった。男性の声を再現しようと思ってもそれもできなかった。
 男性は僕を先導するように僕の前を歩いた。男性は腰を曲げ杖をついて歩いていて、僕はようやく男性がおじいさんであることに気が付いた。後ろ姿は頼りなく痩せ細っていて僕のぼやけた視界にも膨張することはなく細過ぎる気さえした。僕はそれを見て傘をおじいさんに返そうと思ったけど、雨が降っているかどうか確信がなかった。足元を見て、袖を捲って、近くの枝を見て、雨の痕跡を探したけどぼやけて見えない上に腕の感覚がないようだった。
「雨、降っていませんか?」
 僕は馬鹿げた質問をおじいさんの背中に投げかけてみたけどおじいさんには届かないようだった。僕は諦めおじいさんの曲がった背中を眺めながら後について行くことにした。
 僕はおじいさんの後ろについて歩いているはずなのだけど僕は後ろ姿が二つあることに気が付いた。おじいさんのものと僕のものと思しきもの。僕は僕の後ろ姿を思い出すことができなかった。今までそれを見たことがないのだろう。僕の後ろ姿、その言葉から何かを探そうとしても何も見出せずただ真暗闇を見たからだ。それでもそこにいる僕は白いものをさしているところから鑑みて僕らしいことは間違いなかった。
 僕は僕の頭の回転の遅さを思った。目の前で物事が進行しているのにも関らず後から後から僕は何が起こっているのかを確認し気付くということを繰り返している。おじいさんと対峙しているのは僕一人なわけだから焦る必要も全くない状況だろうに、例えばバスケのプロチームの中に放り込まれ立ち尽くすことしか出来ずに、一つのプレーが終わる度にこうすべきだったと反省しているような感覚を覚えた。不思議なことにその反省の時間は僕の中で決着が着くまで十分に与えられた。そして僕がボールを保持した時、つまり僕が当事者として物事を動かす場面が訪れた時だけは物事は進行せず停滞し、僕の意思のままに動かすことができた。そういうことに僕はまた、気が付いた。
「着きましたよ。そこのベンチにでも座りましょうか」
 おじいさんは言った。ポケットから白いハンカチを二枚取り出し並べた。
 僕はそこから眼前に広がる恐らく紅葉の時期を迎えているのだろう油絵のような景色を見た。そちらに明るくない僕はでもそう思った。筆の流れに撹乱され目を離せないような、そういう美しさがそこにはあった。
 しばらくして隣にいるおじいさんを見た。見たらおじいさんは色がなく僕はすぐに木々を見遣った。紅葉していると感じたそれらは色を失くして筆の流れだけがより鮮明に描かれていた。僕は今秋にいるのか確認したかったけど確認する術がなく僕は僕の頭の中は秋にいるのだろうということで決着させた。届かない言葉を発することはもうしなかった。
「私は直に八十歳を迎えます」
 おじいさんは言った。
 僕は僕の見立てに安堵した。
「この土地に住んで五十年が経ちます。お兄さんの生まれるうんと前からここに住んでいます。それでもこの景色は変わらずここに広がってくれています」
 僕はおじいさんの横顔を見遣った。表情は相変わらずぼやけていても目元に陰影豊かに皺が刻まれているのを認め、微笑んでいるのだと思い僕は頷いた。
「その時間の中で私は目に見えて衰えました。髪は白くなり、皺は増え、腰も曲がりました。この景色はどうでしょう。私と同じ分だけ歳を重ねているはずなのでしょうけどそういうことを一切感じさせません。雨や太陽などそういう栄養源があればずっと美しいのでしょうか。私は何と比べて衰えたのでしょう。若い頃の自分と比べてでしょうか。この場所はそういういつどこで芽生えたのかも分からない自らの持つ定義や概念というものを考え直すことを許してくれているような気がします。そういうことを考え直す時、あるいは単に考える時というのは私の場合例外なく孤独な時です。実際には孤独でなくとも自らでそうしてしまうんです。頭がおろおろと彷徨ってしまうんですね。お兄さん、あそこに鳥さんがいらっしゃるでしょう」
 僕がずっと眺めていたはずの景色の中に白い鳥が現れた。それは目の前にいるようにも見えたし遠く木々の上に立っているようにも見えた。またそれは鳥としてはっきりと鳥だった。
「あの鳥さんは長らくここに住んでいらっしゃるようです。気付いた時からずっとここにいらっしゃいますから。ですからほぼ毎日会っているんです、あの鳥さんと。家族以外の方でそのように頻繁に会う方はなかなかいらっしゃらないでしょう。私も長く生きてきましたけれど、仲の良い友人でも一年に一度会えればそれだけでよく会えているなあと嬉しく思います。二十歳の時に知り合った友人だとしてもそう考えれば六十回しか会っていないことになります。お兄さんからすれば六十回と聞けば沢山に聞こえるかもしれませんが、お兄さんがもしおじいさんおばあさんと離れ離れで暮らしていて年に二回程しか会っていないのだとすると、都合六十回会っているくらいでしょう。恐らく密に会っているという感覚は覚えないのではないでしょうか。もちろん会った回数なんてものは何の意味も持たないものだとも思いますけれど。
 この場所に来て一人になりそうした人との関係を考え直していた時、人に対面するということをより気軽に考えてよいのだと思え、また同時に人に会うということは大変に有難いことなのだということを知ることが出来ました。
 会う、と言えば真っ先に人に会うことを思い浮かべるかもしれませんけれど、そこにいる鳥さんや木々や池などもそうです、私は彼らに会いに来ています」
 僕は目の前にある湖を見た。見落としていたのだろうか、気付きを与えられたものしか見えないということだろうと得心した。そんなものだ。
「泳いだり羽ばたいたり、咲いたり散ったり揺られたり、または澄んだり濁ったり。様々な表情を見せてくれます。例えば気分が沈んでいる時にここに来たとして申し分のない晴天で、鳥さんは澄んだ湖面を泳ぎ湖面には咲き誇った桜が映じているとします。そうであったならば私はこの場所に歓迎され受け入れられているような心地がするでしょう。また気分が良い時に雨で濁って花もなく、鳥さんの姿も見えないとしたならば、寂しいような心地がするでしょう。
 気分によって見え方捉えた方はとても簡単に変わりますけれど、何かに対面した時はそのことを理解した上で私は一度空を飛んでみることにしています。
 気分が良い時調子が良い時というのは得てして説明しづらく何となく、という言葉が頭に付くのではないかと思うのです。そしてその時期がまた何となく過ぎてしまうと、何となく気分が良かったのにとても気分が良かった時期として思い起こされ、その何となく気分が良かった時期を取り戻そうとしてしまうのです。私一人の力では気分は良くならないのにも関わらず、です。何にも頼らず一人で奔走してみても気付けば孤独に晒されている私に気が付きます。
 私は空へと飛び立ちます。気分が高まり過ぎないように。気分が落ち込み過ぎないように。周囲の全てに目を向けるために。見渡し落ち着いたならばまた舞い戻り湖面を泳ぎます。波のない平穏な湖に抱かれます。幾つになってもふとした瞬間に抱き締められたくなるものなんですよ」
 僕はおじいさんの横顔がすぐそこにあるように感じた。いつか聞いた綺麗な目をそこに感じた。周囲がぼやけてもその横顔だけはくっきりと生々しく僕の視界に収まっていた。ああ、これはファインダー越しに見るおじいさんなんだと思った。僕は今カメラを構えていてこの瞬間を捉えようとしているんだと思った。カメラ、ファインダー。どこか遠くで聞こえた言葉が僕の頭の中を木霊した。
 カシャッ。
 僕はシャッターを切った。


 真路は目を覚ました。頬を伝うものに触れるため手を持ち上げた。そこに握られているハンカチを見て扉からこちらに向かってくる足跡が消えているのを認めた。
 パチッ。
 燃えている薪に目を遣った。原型を留めているものが数本あるのを認め立ち上がった。
「トキ子さん?」
 真路は窓もないその部屋を見渡し暖炉の横に掛けられたカーテンに近づいた。近づいてそろりと引いてみると上に続く階段があった。真路は足音も立てずに上がって行った。
「よく眠れましたか?」
 天窓から外を眺めていたトキ子は振り返り真路に言った。
「はい、おかげさまで。ありがとうございます」
「そうですか。それはよいことです」
 真路の顔を見て微笑み、トキ子はその部屋唯一のベッドに腰掛けた。
「今、何時ですか?」
 真路は言った。
「もう夜ですよ。九時を少し回ったところです」
 真路は頬を緩め天窓を見遣った。
「お座りください。ここからだとよく見えますから」
 トキ子はベッドの端に手を置き、真路は隣に腰を下ろした。
「真路さんが眠っている間に、覆っていた厚い雲は流れ雨も止みました。そして真路さんに見ていただきたかったものが姿を見せてくれています」
 そう言ってトキ子は天窓を見上げた。真路も倣ってそれを見上げた。
「綺麗でしょう」
 トキ子は言った。
「はい」
 真路は頷いた。
「お家を覆っている木々ですけれど、木々もお家と同じように一箇所だけ天窓のような形で開いているのです。私はそれを夫が亡くなってから知りました。私が老いて夜、外を自由に出歩くことが困難になった場合にもこの景色だけは見られるようにしてくれたんだと思います」
「はい」
 真路はまた頷き手にあるハンカチを握り締め言った。
「僕は夢を見ました。夢というものはどうしようもなく散り散りになってしまうものですね。もうほとんど思い出すことはできません。ですが今こうして何か話したい、何か聞きたい、何かに触れたい、そういう気分にさせてくれる何かを抱かせてくれるだけのよい夢だったということはしっかりと覚えています。僕は些細なことで躓くこの性格が嫌でしたが、それを蹴飛ばしてしまうよりかはまだよいかと今思っています」
「そうですか」
 トキ子は満月を見上げる真路を見た。
「真路さんの目も、とても綺麗ですよ」
 真路は笑った。

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