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映画『ルックバック』があまりにも良すぎて、観客にムカついた話。

先日、『ルックバック』という映画を観た。

漫画『チェンソーマン』の作者である藤本タツキ先生が描いた長編読切を映画化したもので、公開からわずか1ヶ月ほどで既に大きな反響を呼んでいる。

映画を観た感想としては、はっきり言って、

神作

であった。

出版社で編集の仕事をしている人間として、「神作」などといった言葉を安易に使いたくはないのだが、それでもそう言わざるをえないほど、圧倒的な作品だった。

私は、日ごろ感情の起伏はあまり激しくないくせに、とんでもなく涙脆いタイプで、感動的な作品を観るといつも号泣してしまう。

原作を読んですでに号泣していた私にとって、本映画は観る前から「泣くことがほぼ確定している映画」であった。


こういう映画を観る時は、とにかく「準備」が重要である。
私は、前日から十分な睡眠を取り、身も心も万全の状態に整えたうえで、

「かかってこいやぁぁあ!!」

という意気込みで映画館へ乗り込んだ。

だが、しかし。
そんな覚悟も虚しく、冒頭の30秒程度、藤野(主人公)がマンガを描いている後ろ姿の映像を観て、泣いた。

自分でもよくわからないが、泣いた。

別に感動的なシーンという訳でもなく、たんなる物語の導入ためのワンシーンにすぎない。
それでも藤野の後ろ姿を見ているだけで、なぜかグッとくるものがあった。
よく「顔はその人を物語る」というが、もしかすると「背中」もその人間を雄弁に物語るのではないか、とふと思った。

ただ、しかしだ。
繰り返しになるが、まだ冒頭の30秒である。

流石にこのスピードで泣くのは、周囲の人間に「異常者」だと思われるかもしれないと思い、必死に涙と鼻水を堪える。

映画館だからこそ味わえる感動があるというのは間違いないのだが、その代償として鼻水をすするのを我慢しなくてはならないというのが、映画館における映画鑑賞のツラいところだ。

そしてここから、約1時間にわたる過酷な戦いが始まることとなる。

冒頭ですでに鼻水を詰まらせた私は、その後満足に鼻をかむこともできず、ほぼ口呼吸の状態で映画の鑑賞を続けることとなった。

もっとも、周囲から多少なりともすすり泣く音でも聞こえてくれば、私もいくぶん音を立てやすかったのだが、館内は全くの無音。

「なぜだ・・・」


もちろん、冒頭の30秒で全員泣いてくれ、なんてことは私も言わない。 
ただ、物語が終盤に差し掛かってもなお、鼻水をすする音一つ聞こえないとは、一体どういうことだ、、、

最高のエンタメを大画面で享受できている喜びと、鼻が永遠に詰まり続ける苦しみ。

酸素不足に陥り、苛立ちが募った私は、他の観客たちを見てふとこう思った。

「お前ら人間じゃねぇ!!!」


いや、人間である。間違いなく、人間である。
それでも、これほどまでに感動的な作品を観て、平静を装える人間がこんなにもいるなんて、にわかに信じがたい話である。

だが、おかげで1つ気づけたことがある。

なぜ、多くの映画作品において「感動的なシーン」が物語の終盤に設定されているのか。

それは、序盤でそうしたシーンを作ってしまうと、

「長時間にわたり鼻を詰まらせることで、
 死人がでる」

可能性があるからである。

もしくは、

「自分だけが鼻を詰まらせている状況を、周囲の観客たちのせいだと責任転嫁し、無関係の人間にむかって暴言を吐いてしまう」

可能性があるからである。

私の場合、人並み以上の理性と「note」という吐口があったからなんとかなったが、そうでなければ大変なことになっていたところだ。

また、本作は58分という映画としては異例の上映時間が話題になったが、この短さも、「鼻詰まりで死者を出さないように」という関係者の配慮によるものだったのかもしれない。

いずれにせよ、私は心の中で暴言をとどめ、酸欠で倒れることもなく、無事に映画を鑑賞し終えることができた。

これほどまでに「常態的に泣ける映画」は、もしかすると今後現れないかもしれない。
そう思えるほど、すごい映画だった。

ちなみに、映画・原作ともに私が1番号泣したのは、「ifの世界」において、担架に乗った藤野と京本が会話をするシーンである。

感動的で、残酷で、美しくて、苦しくて、アツい物語。

こんな映画のためだったら、もう一度、鼻を詰まらせに行くのも、悪くないかもしれない。

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