【(超)短編小説#“地震”】
一艘の舟が山峡を縫うようにして下っている。
水面を行き渡る風が奈保子の短い髪を揺らした。舟は両岸からおそいかかるように突き出した岩々の威嚇を一向に意に介さないかのように悠々と下ってゆく。船頭が岩場の陰に舟を停める。船頭は櫓を置き舳先に立つと煙草に火をつける。ゆっくりと吐き出された煙は唇の先で真横に折れてゆく。奈保子は船べりに手をかけて水面をのぞき込む。深く碧い水底はまるでありありと手に取るように映る。
あっ、声にならない声をあげると、水底に引き込まれるような感覚が身体の奥深いところに湧き上がると恐ろしさに目を閉じた。舟が小刻みに揺れはじめる。
船頭さん、奈保子は舳先に目をやるとそこに船頭の姿はなかった。舟底をたたく水音が響く。舟が大きく傾いた。
奈保子は見えない力に身をゆだねながら幼少のころをおもった。
…
梅雨の走りを思わせる湿り気を帯びた風が鼻先をかすめた。
ちょっとまって、奈保子は大きく息を吸い込むと吐き出した勢いで母を呼び止めた。
どうしたの、かがんだ母の胸元からせっけんが香った。その拍子に風呂屋で買ったシャンプー、手ぬぐい、着替えが詰まった洗面器の中のせっけん箱の中でせっけんがカタカタ鳴った。
ほら、奈保子が指をさしたのはショーウインドの向こうの水そうの中を泳ぐ金魚だった。二人はショーウインドに近づく。
かわいいね、奈保子は額をショーウインドにくっつけて言った。
ほんとうね、母は洗面器を抱えたまま、のぞき込むようにしてショーウインドに顔を近づけた。
そのとき、地面が揺れた。畳み込まれたシャッターが戸袋の中で音を立てる。水槽の中の金魚が揺れる。
きゃっ、しゃがみこんだ奈保子をかばうようにして母は奈保子の背中を抱いた。洗面器が道に転がった。
…
「もうすぐ、暗くなるべ。夜釣りはうまくなかんべや」仲間の声に七郎はなごりの陽がもはや失せかけた西の空に目をやった。
「わかってるって」七郎は手を上げてこたえる。竿の先に当たりを感じた。
―よし、確かな手ごたえに文治は小さく声をあげると、はじかれるように立ちあがった。そのとき足元が揺れた。
おっ、足を踏ん張った途端、視界が揺れた。少し前のにわか雨にゆるんだ川べりに足元をすくわれた。
「おい、大きいぞ。七郎、はやくあがれっ」仲間の声が響いた。
―いかん、カッパだ、そう思った時には七郎の両足は水の中から伸びた手に引きずり込まれていた。
…
さあ、もう大丈夫だ。男の口がそう言っているようにみえた。奈保子がその手を握り返すと身体が浮き上がった。男はこともなげに奈保子を水から引きあげた。
「ずいぶん大きくなったなあ」
「おとうさん……でしょう」幼いころに死に別れた七郎がいる。「ああ、よくおぼえていたね」
「おとうさんこそどうしてわたしだってわかったの?ちいさいころのわたししかしらないはずだったのに、ねえ、どうして」
七郎はすっかり薄くなった頭のてっぺんをなでながら困った表情を浮かべた。
「それはなあ、空の上からはここのことはなんでも見えるからだよ」
「そうなの……」奈保子が上半身を起こす。
もう大丈夫そうだな、七郎の声が遠くから聞こえる。
それじゃな、ほほえみながら手を振る七郎の顔は輪郭を失ってゆく。やがてその顔はゆがんで、夜のとばりに溶けていった。
おとうさん、奈保子が見上げた月はどこか七郎に似ていた。
―おわり―