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【短編小説#23(中編)】

「プールにいってくる」

「流水公園か?」

「ああ」

「でも、おまえ、いまさらプールってのもないだろう」

「せっかくこっちに戻ってきたんだから…」

「おまえも若くない。まあ、ムリするな」

「わかってるよ」壬生七郎はドアノブに手をかけた。

 幼い頃と同じように自転車で出かけた。当時は長いと感じていたその距離が今となってはそうでないと感じた。深い緑が道の両側から迫ってくる道を蝉の声を聞きながら七郎は自転車を進めて行く。

 五十円だった料金が七百円になっている。脱衣場は閑散としている。こんなことで子どもの数が減っていることを実感する。七つあったプールの数が減っている。名物だった流水プールがコンクリートで埋められている。

(これじゃ、【流水公園】といえないなあ…)かつては、まさに芋を洗うがごとく、この流水プールには大人も子供も溢れていた。

 場所の確保に戸惑った。ないのではなくて、ありすぎるのである。屋根のある下にひとり分のビニールシートを敷き、荷物を置いた。体操をして、水に足をつける。

(意外に冷たくない…)七郎はそろそろと下半身を水に浸けてゆく。揺れる水色の水に真夏の陽がきらめいている。

(もっと深かったな…)七郎は意を決してその場にしゃがみ込む。

(冷たい…)しばらくそのままでいて体を水に馴らす。馴れてくると、頭を沈めて目を開く。耳元で水が上がってゆく音がする。そのままの姿勢で水の中を歩く。息が続かなくなって平泳ぎを始める。水をかく。いよいよ息も体もきつくなって足をつく。

 顔を上げたその時、ビーチボールが頭に当たった。子どもたちの視線を受けながら、七郎は穏やかな表情のままボールを投げ返すと、それが若い女の頭に当たった。女は怪訝な表情を向けたが、その相手が相手に安堵感を与えるような人柄の良さそうな中年男だとわかると表情を緩めた。

「ひとりで来て、水にも入らずにじっとしていて、おかしなヤツだと思われちゃかなわない」

「そうですか?」

「そうですよ」二人はプールサイドに腰かけたまま水面を見ている。

「こういうのもどうかと思うけど、あなた、ずいぶんと水着が似合っていますね」七郎は隣の彼女の均整のとれた筋肉質の体型を見る。

「唐突ですね。この水着、競泳用なんです」彼女は水着の胸元をつまみ上げる。七郎は彼女ピントのはずれた反応を可笑しく思った。

「競泳用ですか…」

「ええ、これでもオリンピック目指していたんです」女は頭に手をやった。

「オリンピック…」

「ええ、でも力がなかったから、結局ダメでした」

「そんなひとがどうして、こんなプールに」

「ちょっと、癪に触ったことがあって…泳いで憂さでも晴らそうと思って」彼女は遠くを見た。

「…あの、ぶしつけなお願いで、恐縮です。わたしにクロールを教えていただけないでしょうか」

「…クロールですか」

「ええ、きれいなクロールができるようになりたいんです。無条件に尊敬してしまうんです、クロールができるひとを」

「…いいですよ。やりますか」彼女は立ち上がると、両腕を後ろから前に向かって力強く回した。

 七郎は座ったまま、隣の彼女を見上げた。七郎も立ち上がって、彼女と同じようにした。

 仕事を終えて、ひとつ手前の駅で降りた七郎は、足早に暮れ方の街を突っ切って、奈保子との約束の場所に向かった。着替えを済ませ、プールサイドに立つと奈保子が近寄る。

「今日でおわりでしたね…」インストラクターという肩書きは普段の奈保子がみせる愛くるしさを覆い隠した。

「どうでしたか」

「ええ、なんとか体裁くらいは保てる程度にはなれたかな、といった感じですが…」

「もう少し続けられてはいかがですか」

「いや、わたしにはこのくらいがちょうどいいんですよ」

「そうですか…」奈保子は視線を足元に落とした。

「先生、いや、もう桜庭さんってお呼びしてもいいですよね」

「さくらば、っていうのも固いから、なおこでどうですか」

「それじゃ、奈保子さん、このあと、食事にご一緒いただけませんか。今日が最後になるかもしれない」

「いいですよ。ここが九時までなんですが、それでもいいですか」

「かまいません」

「わたし、車なのでアルコールはいけませんが」

「かまいません。古いイタリア料理屋なんですが、味は確かです」

「まあ。楽しみです」奈保子は腰の辺りで手を振ると小走りで別の客に向かって行った。

 この年の夏は八月の半ばを過ぎると秋の気配が訪れた。隣を歩く奈保子の髪を乾いた風が揺らした。紺色のワンピースからのぞく白い脚が夜目にも鮮やかだった。

「どうぞ」奈保子は運転席から身を乗り出すように助手席側のドアを開ける。

 七郎はシートに腰を下ろすとドアを閉める。重厚なドア音に車の高級感を思わせる。

「どっちかしら」アクセルを踏み始めた奈保子が尋ねた時、七郎の携帯電話が胸のポケットで震えた。

-もしもし、えっ、なに?…とにかくすぐ帰る、七郎はいまいましげに電話を閉じた。

「どうしました?」

「おやじからです。食事はまたの機会に」七郎はドアに手をかけた。

「お送りします」事態がのっぴきならないことを感じた奈保子が言った。

「でも…」

「お急ぎなんでしょう」奈保子はギアを一速に入れると、蹴飛ばすように車を走らせた。

「ボヤで済んだ。あなたに助けられた。礼は改めていたします。ありがとう」家の中から出てきた保吉が頭を下げた。

「そんなこといいんです。とにかく、大きくならなくてよかった。それじゃ」

「また寄ってください。男所帯でなにもおかまいできませんが」保吉がもう一度頭を下げた。

「ありがとうございます。そうさせていただきます」奈保子は車のドアに手をかけた。

「また連絡しますよ」七郎が左手を上げた。奈保子が小さくうなずいた。

 魚彦と保吉は遠ざかってゆく車のテールライトを見つめていた。

(派手かな…)ルームミラーに映った唇の赤色を見て奈保子は呟いた。スニーカーを足元に置いたハイヒールパンプスに履き替える。 アプローチに車を停めて、玄関の呼び鈴を鳴らす。

「いらっしゃい、まあ、お上がりなさい」保吉が出迎えた。姿勢の良さときちんと撫でつけた白い髪が清潔感を与える。

「七郎は買い物に出て、じきに戻ります。お座りになって」保吉は奈保子を居間に通すと言った。

 台所に立って湯を沸かす保吉の後ろ姿を見ながら、奈保子は保吉に寂寥感と合わさった奇妙な色気を覚えた。奈保子は立ち上がると保吉の側に寄った。

「わたしがやります」

「お客さんにそんなことはさせられない」

「でも、こういうことって女がやるものじゃないですか」

「…」

「だから、おとうさん、は、おかしいか。おとうさん、お名前は?」

「みぶやすきち、です」保吉の表情が強張った。

「壬生浪人のみぶに保険のほ、吉凶のきち」と書きます。

「さくらばなおこです。あらためて、よろしくおねがいします」奈保子が深々と頭を下げた。

「こちらこそ」保吉も頭を下げた。いらっしゃい!、玄関から七郎の声がした。

「クルマで来ないで、っていったじゃないですか」ワインの瓶を買い物袋から取り出しながら七郎が奈保子を見た。

(といわれたって、はいそうですか、ってわけにいかないじゃない…)奈保子はそれに答えず、「わたし、なにかお手伝いできることないかしら」と言って七郎をはぐらかした。

「いいよ。奈保子さんは座っていてくれたらいいんだよ」

「じっとしているのもなんだし…」

「テレビでも見ていたらいいんだ」

「でも…」

「七郎、いいじゃないか。それなら、そうしてもらったら」保吉は七郎を見た。

「さすが、保吉さん、話がわかる」奈保子が保吉に抱きついた。

(やすきちさん…)七郎は混乱した。

 …

 保吉は学校長だっただけあって博識で、特に教育については熱をもって話をした。奈保子には、そんな保吉が魅力的に思えてきた。

「いいじゃないか、泊まっていったら。部屋はあるし、明日は日曜日だし…」七郎が言った。

「保吉さんのお話、興味深いのでお言葉に甘えさせていただきます。それじゃ、ビールを…」七郎が注いだグラスいっぱいのビールを奈保子は一気に煽った。

奈保子はかなり酔っていた。

「大丈夫かね」保吉が心配気に訊ねた。

「大丈夫です。泊めてもらえるんですよね。今日はとことん飲んじゃおう」座った目を向けた奈保子は自ら三本目のワインをグラスに注いだ。

「布団、用意したから」七郎の声が遠くから聞こえる。奈保子は七郎に支えられて二階の部屋に上がった奈保子は敷かれた布団に倒れこんだ。

―つづく―

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