渡の周りは才ばかり 2話
放課後、特別棟三階の廊下。そこは窓から差し込む光で優しいオレンジ色を帯びていた。
その廊下に斜めの影を作りながら、渡が一人歩いていた。歩く彼は外を眺める。そこにはグラウンドを駆け回るサッカー部の姿があった。ボールを止めては蹴る。そして走り出す。渡はその練習風景に何か言おうとしたのか、彼の唇が微かに動いた。が、結局息すれ漏れなかった。
渡は少し視線を上げて窓に映る自分を見た。進みながらも見つめる彼自身の瞳は、何一つ動いていないように彼を閉じ込めていた。
そうして渡は、一つの教室の前で立ち止まった。渡はその扉をカラカラと開ける。
「失礼します」と渡が入ったその先には、閉め切られたカーテン、明かりの灯った電気下、眼鏡をかけた一人の男子生徒が、九つほど並ぶ水道付きの大きな机と机の間を、行ったり来たり歩き回っていた。
渡の入った教室の表の札には『生物室』と書かれていた。
「おお。渡君。こんにちは」
「こんにちは。矢部先輩。そんなに歩き回ってどうしたんですか?」
「いや、ね。これも生物研究の一環というかなんというか」
矢部はうろちょろし続けながら顎に手を当てていた。
「というと?」
「うん。何というか僕ら人間て、じっとしているよりも歩き回ったりしているときの方が頭がよく働くような気がしないかい?」
「んー。どうでしょうか」
「僕はね。そんな気がしたんだ。だから実験として動きながらとじっとしながらでどちらの方がテストで点を取れるのか試そうと思ったんだが…」
そう言って矢部は窓際の机の前で立ち止まると、置かれた木の四角い椅子に腰かけた。
「計算百問のタイムではどうにもじっとしている方が良くてね。その理由を考えるべく歩いていたというわけなんだ」
「な、なるほど?」
「それで君はどうしてだと思う?」
「そうですね—」
渡はゆっくりと矢部の方へ歩み寄ると、机の上に逆さに乗った木の椅子を一つおろして座った。
「先輩。その計算問題解いたとき、歩き回る場合はどのように解答したんですか?」
「そりゃあ勿論、座ってから書いて、また問題を見て立ち上がってという風にやったよ」
「なるほど。それで因みになんですが、その解いた計算問題百問、見せていただいてもいいですか?」
「ああ、勿論さ」
そうして渡が受け取った紙には、ずらっと二桁同士の足し算の問題が並んでいた。
「矢部先輩。七十八+五十七は?」
「百三十五だ」
矢部は渡の出した問いに、一瞬で答えた。
「矢部先輩。多分これ、やり方がまずかったかもしれません」
「ほう。どういうことだ」
「矢部先輩は、二桁同士の足し算にはどれくらいの自信が?」
「そうだな。多分この学校で一番解くのが速いんじゃないかな? 自慢になるが、小学校の頃も負け知らずだったよ」
矢部はとても真面目な顔で言った。
「それがどうかしたのか?」
「はい。今回の実験で矢部先輩は座ったままでも十分に事足りる二桁同士の足し算百問を用いました。しかしそれでは、もし歩き回った方が一瞬でも計算が速かったとしても、その後座って記入をする、という動作で遅れが出てしまうのです」
渡の言葉に、矢部は「はっ」と大きな気づきを得たように目と口を開いた。
「そうか。それでは立ち歩くということに対して全くのアドバンテージがないではないか」
「そうなんです。しかも、先程も言ったように、先輩はじっとしたままでも十分に計算が速い。となれば、立ち歩くことで縮まる可能性のあるタイムには、ほんのわずかな差しか生まれないんです」
「なんと。全くその通りだ」
「だから、この実験は思った様な結果が得られなかったというわけです」
矢部は渡の説明に、「はあ、これはやられた」と感心するように頷いた。
「では渡君、ついでに考えて欲しいのだが、君ならこの歩き回った方が頭が働くという仮説をどのような実験で立証する?」
「んーそうですね」
渡はじっと考えた。
その間、グラウンドからカキンという爽快な金属音が二人のいる生物室まで幾度か響いてきた。
三十秒ほどしてから、渡はぱっと矢部の方を見てくちを開いた。
「そうですね。やはり、矢部さんにおける二桁同士の足し算の様な単純な計算問題ではなく、もっと思考力によった問題を解く方がいいかもしれませんね」
「ほう」
「つまりですね、四則演算等、機械的なものではなく、有機性を保持しているような問題―。例えば…」
少し間をおいて机を三回ほど優しくたたいてから、渡は指をパチンと鳴らした。
「そう、なぞなぞとか、水平思考ゲームとかそういうのでやればいいと思います」
「なるほど。それは良い案だ。早速やろう。手伝ってくれるかい?」
「はい。もちろんです」
「ではよろしく頼むよ」
矢部がそう言うと、渡はポケットからスマートフォンを取り出した。そして検索エンジンで“なぞなぞ”と打ち込みそこに出てきた問題を、矢部に出した。
「では初めに座ったままでいこうか」
「はい。一問目です。リンゴ、バナナ、ブドウを積んだトラックがカーブに差し掛かりました。さて、その時トラックは何を落としたでしょうか」
矢部は「ほほう、難問だ」とじっと考えた。「何を、何を」と何度も呟きながら顎に手を当てて考えた。
「うん。わからん。答えは?」
「先輩、今じゃないですか?」
「ああ、そうか」
そう言って矢部はゆっくり立ち上がると、先刻のようにぐるぐると教室中を歩き始めた。なにやらぶつぶつ唱えながら角を曲がりまっすぐ進み、また角を曲がりまっすぐ進むを繰り返した。
そんなことを真剣に取り組む矢部を見る渡の視線には、羨望が混じっているようだった。
矢部が三度目に角を曲がったとき、はっとした様に口を開いた。
「そうか。スピードだ。トラックはスピードを落としたんだ」
そう答える矢部に対して、渡は「正解です」とにっこり微笑みを向けた。
「おお、素晴らしいよ。やはり歩いた方が頭の働きが良い気がする」
「大発見ですね」
「ああ。だがまだ理由としては乏しい気がする。もう何回か試してみよう」
「はい」
その後も二人は、やり方も変えながら傍から見れば幼稚なような実験を繰り返した。進む時計は、その長針を一分過ぎるごとに、カチッと動かしていった。そしてその針が進むにつれ、カーテンの外側は朱色から黒色へと移り変わっていった。
「よし。この実験はここまでにしようか」
「はい。そうですね。もう時間も時間ですし」
「おっと、本当だ。もうこんなに時が経っていたのか」
そう言って矢部はカーテンを少し開けた。その向こうは向かいの校舎の明かりが少し見えるばかり、後は暗く窓が鏡のようになって、矢部の少し痩せた面長の顔を写していた。
「そろそろ帰りますか?」
「ああ。そうだな。今日は終わりにするとしよう」
そうして渡が手に持ったスマホをポケットにしまって、帰ろうと立ち上がったとき、矢部が「ああ、そうだ。今日は君に見せたいものがあったんだ」と引き留めた。
「ん? 何ですか?」
「ちょっと待ってね」
矢部は何やらカバンの中をガサゴソ漁ると、中からたくさんの紙が入っていると思われる、分厚いファイルを取り出した。そしてぺらぺらと数枚めくって、一つの新聞記事を渡に見せた。
「これなんだけどね」と矢部が指さす見出しには『ブレイン・マシーン・インターフェース』と書かれていた。
「これは?」
「これはね。脳の命令で直接機械を操作するっていうのを考えてくれればいいかな。人間の発する脳波とかでロボットとか機械を動かすんだ」
「そんなこと、できるんですか?」
渡の問いに、矢部は目を輝かせた。
「ああ。できるさ。知っているかい? もう何年も前にネズミの脳細胞で小型のネズミを模したロボットは動いたんだ。なら人間だってできる。なんなら僕らが知らないだけでどこかではもう実現しているかもしれない」
「そうなんですね」
渡は少し引き込まれるように前のめりになった。
「そうなんだよ。それでね、僕はそういう研究を大学でやろうと思っているんだ。ああ、待ち遠しいよ。そうだ。ねえ、そもそもどうやって人間の体って脳の命令で動いているか知ってる?」
渡は首を横に振った。
「それはね、人間の脳が命令を出すと―」
矢部は自分の世界に入り込んでただひたすらに渡に対して、人間の神経系から何からまでの説明をした。
その間、キラキラと輝く矢部の瞳に反して、そこに写る渡はその矢部の光に当てられて、焦がされたように黒く濁っているようだった。
「というような感じなんだ」
と矢部が丁度話し終えたとき、渡のポケットが振動して「ブーブー」と音を立てた。
「あ、すみません。電話来ちゃいました」
「どうぞ、出ておくれ」
「すみません」と軽く会釈して、渡はその場から離れるようにして電話に出た。
「もしもし?」
「あーもしもし。ごめん渡、今大丈夫?」
「おん。大丈夫だよ。どうしたの?」
「いや、ちょっと相談事あってさ。今学校?」
「うん。そうだよ」
「ならさ、一緒に帰らね?」
「ああ、別にいいけど。というかもう部活終わったの?」
「終わったー」
「なんかいつもより早いな」
「まあ、いつもは自主練してっからね。今日は自主練しない感じなので」
「なるほど。オッケイよ。校門前でいい?」
「うん。俺待ってるわ」
「すぐ向かいまーす」
ピっという音と共に電話が切れた。
渡は矢部の方へと戻った。
「すみません、先輩。ちょっと用事できちゃって」
「おお、そうか。丁度僕も今日は帰ろうと思っていたんだ。鍵は任せて、先帰っていいよ」
「すみません。ありがとうございます」
「ではまた。気を付けて」
矢部が手を挙げた。それに対して軽く会釈をして、渡は生物室を後にした。
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