渡の周りは才ばかり 5話

 連休明けの五月二週目。昼間の気温は段々と夏に近づき、西高校の中庭の植物も青々として来ていた。
 「はい。それじゃあ、今日は隣の人の似顔絵を描いていきましょう」
 「先生、今日隣の人休みです」
 「あれま。それならどっか入れてもらって」
 「はあい」
 そう言われた少女は、ショートの髪を揺らして、見知った二人の元へと向かった。
 「いーれーて」
 「おう、いいぞ」
 「どぞー」
 「あ、り、が、と、う」
 才花は大きく口を開けながら言った。
 「お礼を言えて偉いですね」
 「でしょ」
 秋の言葉に才花は笑顔を咲かせた。
 「でも、まさかねえ」と才花は自分のいた席の方を振り返る。それに続いて、圭介と秋もそちらを見た。
 「ね。まさかだったね」
 「まあ、疲れてたんだろうな」
 「ゴールデンウイーク休んだのに?」
 「人間、そういう時もあります」
 秋はゆっくりと頷きながら言った。
 「大丈夫かねぇ。彼は―」
 三時限目、選択科目の美術の授業。いつもであればいるはずの一人が今日はいなかった。
 鈴木渡。彼は今日、熱を出して学校を休んでいたのだ。
 「全く。体調管理がなってないのよ。早寝早起き朝ご飯をどうせサボったんでしょうよ」
 「まあまあ才花さん、そう強く言いなさんな。彼も色々と大変なんだろうよ。今日は許してやらんかね」
 「おーい、そこの化け物三人衆。口だけじゃなく手も動かせよ」
 「はあい」
 「先生、化け物は一人しかいません」
 「秋、お前ぇ」
 「え、俺、誰のことかは言ってないよ」
 「ちょっ、てめっ―」
 才花が一言言おうとしたとき、その言葉は喉で止まった。
 「いい子でお絵描きしましょうねぇー。松本さん、山野君。なんだか私、田代先生と宮沢先生に用事があったような気がするんだけど—、なんだったかしらねぇ」
 と美術の先生が言い終わるころには、才花と秋、二人の右手がピシッと天井に伸びていた。
 「先生、僕たち」
 「私たちは」
 「いい子でお絵描きすることを、誓います」
 「なので多分その用事ってのは勘違いだと思いますよ。なあ才花」
 「う、うん。絶対勘違いですよ。ねぇ圭介」
 「お、おい。俺は関係ないだろ」
 圭介は少し顔をしかめた。
 「ふうん。で、どうなの? 近藤君」
 「え、あ、か、勘違いだと思います」
 「なるほど。では、私が田代先生と宮沢先生と加藤先生に用事を思い出すかは、今日の授業が終わってからわかるかもね」
 「はい」
 「はい」
 「はい。って俺巻き込み事故なんだが」
 「じゃあ、いい子で頑張ってね」
 そう言って先生はその場を離れていった。
 「おいお前ら。まず俺に誤ってもらおうか」
 「はい、ごめんなさい」
 「ごめんなさい」
 「ほんとに、やっぱりこういう時に渡がいないとダメなんだろうな」
 「そうだね」
 「つまり、渡のせいってことだよ。あいつが休んだせい」
 「まあ、そりゃあこんな体力お化けが居たら、あいつも―」
 「秋、それ以上言ったらさ…、ね?」
 と才花が言い終わったとき、遠くで先生が咳払いをして三人の方を睨んだ。
 「おいお前ら、せめて手は動かせ。これ多分連帯責任だから。マジで頼む」
 さっきよりも小さい声で、囁くように圭介が言った。
 「わかってるって」
 「よし、じゃあ誰が誰描く?」
 続くように二人も小声になる。
 「おっけ、俺才花描くわ」
 そう言って秋が手を挙げた。
 「わかった。そしたら私が秋を描くね」
 「そしたら俺は…、誰を描けばいいんだ?」
 「バカ、そこは違うでしょ。“よーしそしたら俺はトイレの鏡で自分を描けばいいんだね”っていって立ち上がるまでやらないとだめでしょ」
 才花がした突然の渡のものまねに、秋と圭介は思わずふき出した。
 「あー、なんだか用事、思い出しそうだなあー」
 「おいバカ。とりあえず才花は俺を描け。俺が秋を描く。それでいいな?」
 「そうだね。それでいこう」
 そうして三人とも鉛筆を手に、スケッチブックへとそれぞれの顔を描いていった。
 才花は柔らかなタッチで、圭介は豪胆に、秋は軽やかな運びで個性的な線を生み出していった。
 時間も経って、次第に鉛筆がスケッチブックを走る音以外にも、話し声があちこちでし始めた。それに合わせて、まぎれる位の音量で才花が口を開いた。
 「にしても本当に渡大丈夫かな?」
 「あいつって体弱いの?」
 「いや、全然。風邪ひいて学校休むとかあんまなかったよ」
 秋の問いに、才花は手を横に振った。
 「まあ、そんな気はするよな」と圭介は納得したように頷いた。
 「バスケの疲れが抜けなかったんだろうね」
 「休みをまたいだのに?」 
 「才花とか俺らみたいに毎日動いてなきゃしんどい場合もあるでしょうに」
 「ふーん。そういうもんなのか」
 才花は少し飽きた様子で、鉛筆を尖らせた唇の上に置いた。
 「でもあいつ、バスケ上手かったよな」
 「ね、秋なんかより全然」
 「何お前、渡いなかったら矛先俺に向けるの? だれかいじらないと気が済まないの?」
 「動き良かったもん渡」
 「わお、まさかのスルー。渡、今日、俺はお前のすごさが分かったよ。いつもありがとう」
 「ねえ、圭介。さっきから秋何言ってるの?」
 「才花、その辺にしないと俺もかわいそうに思えてくる」
 「それはごめん。もうやめるわ」
 「ありがとう圭介」
 「おうよ」
 圭介と秋は手を動かしながら、才花は偶に描いては天を仰ぎ、描いてはあくびを噛み締めていた。
 「そう言えばさ、あの後赤海と何話したの?」
 「ん? ああ。まあなんか久しぶりだねー的な」
 「そうなんだ」
 「なんで?」
 「いや、なんとなく気になって」
 「ああそっか。そう言えばあいつサッカー部だもんねぇ。え、東高って強いの?」
 「まあ、俺らとどっこいどっこいて感じかな、今は」
 「ほえー。赤海ってやっぱ上手いの?」
 「上手いかなー。点取り屋って感じ」
 「秋とどっちが上手い?」
 「それは、役割が違うからなー。どっちが上手いかは一概にはわからないよ―」
 「けど」と秋は語気を強めた。
 「負ける気はしませんねぇ」
 「おおー負けず嫌いだねぇ」
 才花は感心するように何度もうなずいた。彼女の鉛筆は、口の上に乗っていたが―。
 「負けず嫌いというか、自信というかだけどね」
 「―ほんと、渡にも見習ってほしいよね―」
 ほとんど息を漏らすように、小さく才花は呟いた。
 「ん? 渡が何だって?」
 気になって聞き返したのは秋だった。
 「いや、渡がこの中で一番負けず嫌いって話」
 「え、そうなのか?」
 「そんな気、しなけど」
 圭介と秋は互いに見合って首を傾げた。
 「渡が競争で一生懸命やるのとか想像つかないんだけど」
 「そうだよな。だいたいあいつって勝負事とか一歩引いた感じのとこいるイメージあるわ。この前のクラスマッチだって楽しもーぜーってやってたもんな」
 秋の言葉に、圭介は頷きながら賛同した。
 「いやいやいや。あいつ、中学の時までほんと凄かったんだから」
 「負けず嫌いが?」
 「うん。それもそうだし色々」
 「色々?」
 「そうだよ色々凄かったんだよあいつ」
 と言って、才花はぐーっと上体をそらせて、後ろの窓を見た。彼女の目に映る逆さの世界。どこまでも青く続く白い地面に、白の水たまりがぽつぽつと見受けられた。
 「本当に、渡は凄かったんだよぉーーーーー―」
 才花は語尾を伸ばしながら跳ね戻るように上体を起こした。
 「今は変わっちゃったけどね」
 そう言って微笑む才花。彼女は鉛筆を手に取ると、ぐしゃあーっと、顔の影を塗り始めた。
 「…それは、あれか。あいつが変わったのって赤海君が関係するのか?」
 真っすぐと才花を見て圭介が聞いた。
 才花は依然として視線をスケッチブックに向けたまま、「どうだろうね」とそっけなく返した。
 「でも、赤海も渡がサッカー辞めたの、驚いたとは言ってたよ。この前自販機の前で話した時、そう言ってた」
 代わりに答えるように秋が言った。
 「驚いた、か。自覚がない可能性を除けば、赤海君のせいではないか…」
 「うん。それになんか言ってたのは、渡、なんか最後の大会で負けてから一時期ちょっとだけおかしくなったみたいなことは言ってたね」
 「おかしくなった?」
 「そう。なんか、雰囲気が暗くなった、とも違う、どこか怖いような、でもそれも違うような、なんか複雑に悩んでいるみたいな感じだったらしい」
 「そうなのか。結果が良くなかったのか?」
 「いや、確か渡たちの中学県でエイトまで行ってるはず」
 「じゃあ、最後PK外したとか?」
 「いや、俺もそう思って聞いたけど、赤海いわく、そうじゃないらしいよ」
 うーんと秋と圭介は二人腕を組んだ。
 「才花は何か知らないのか?」
 圭介がまた尋ねた。しかし、その問いに才花は、鉛筆をシャーシャーと滑らせながら「どーだろーね」とどうでもいいように返した。
 「でも確かに渡、中学時代凄かったんだろうよ」
 「どうしてだ?」
 「ん? サッカー部の後輩に純太って渡と同じ中学のやつがいるんだけど、そいつめっちゃ中学の時の渡のことすげぇすげぇ言ってんの。かなり尊敬されてたぜあいつ」
 「そうなのか。というか秋、お前も中学でサッカーやってたならあいつのプレー見た事あるんじゃないのか?」
 「あー、見たことあったのかもしれないけど、なんせ対戦してないからなあ。俺、ジュニアユースでやってたし。リーグも違くてよくはわかってないんだよね」
 「そういうもんなのか」
 「っそ」
 「でもそんな後輩にも慕われて、この才花にも凄いって言わせてんのに、どうしてそんな自分を変えちまったのかな。あいつは。別に今のあいつが嫌いとかじゃないけど、見て見たさはあるよなそのあいつを」
 と圭介が言ったところでチャイムが鳴った。
 「はい、じゃあ最後前の机に提出していってね」
 ぞろぞろと全員が前に動き始めた時、才花が口を開いた。
 「まあ、どれだけ考えても私たちにはわからないんだろうよー」
 「そうかもな」
 「だな」
 そう言って秋と圭介は立ち上がり、スケッチブックを提出しに行った。才花はと言うと、どこか窓外の遠くを見て、“そう、わたしたちにはね”と口先を動かした。
 狙ってか狙わずか、奇しくもその彼女の見た先、ずっと遠くには才花と渡の中学があった。

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