渡の周りは才ばかり 6話

 今日は生憎の空模様。今にも雨が降り出しそうな重たい雲の下、西高校では就業のチャイムが鳴り響いていた。
 「さようなら」
 帰りのホームルームも終わり、渡のクラスメイトは、各々部活だの帰宅だのへと向かっていった。
 「ねえ渡。今日私オフなんだけど—」
 「今日はマジで用事あるから無理」
 「もー。バスケじゃないよ。一緒に帰ろって誘おうと思ったの」
 才花は右頬をぷくっと膨らませた。
 「あー、それならいいけど、ちょっと用事あって」
 「いいよー。教室で待ってる」
 「悪いね。いつでも先に帰りたかったら連絡して」
 「オッケー」
 「じゃあちょっと行ってくるわ」
 「いってら」
 そう言って才花は教室を出ていく渡に手を振ると、窓を開け放った。そして一つ大きく息を吸ったと思ったら、わけもなく踊り出し、最後にエアーでシュートを放った。
 一方、教室を後にした渡は職員室へと向かっていた。
 「失礼します。二年B組鈴木です。細田先生に用があってきました」
 職員室には香ばしいコーヒーの匂いが立ち込めていて、その奥の方の席で、一人渡を手招きする先生がいた。
 「いやあ、ごめんね鈴木君」
 その先生は少し小太りで、三十代程だろうか。四角い眼鏡をして角刈りに近い髪を携えていた。
 「いえ、大丈夫です」
 「部活とかは…」
 「大丈夫ですよ。同好会なので」
 「良かったー。さっきも言ったけど、これから出張の会議でさ。これ鍵ね。終わったら僕の机の上置いといてもらえばいいから」
 「はい。わかりました」
 「ああ、それと。もう一人助っ人読んでおいたから。サッカー部の一年の子なんだけど」
 「サッカー部、ですか」
 少し渡はドキッとした 。
「そうそう。一応僕、名ばかりだけど副顧問やってて。それで宮沢先生に話したら一年一人だけ使っていいって言ってくれてさ。お言葉に甘えて読んだんだよね」
 丁度その時、職員室の扉が開いた。
 「失礼します。一年D組葛西純太です。細田先生に用があってきました」
 その名と姿を認めた時、渡の表情が引きつった。
 「あー、葛西君。こっちこっち。ごめんね、手伝ってもらって」
 「いえ、いつもグラウンドの草取りしてくださっているので」
 「何言ってんの。僕には損ぐらいしかできないからさ―。ってそれより、今、鈴木君に教室の鍵渡したから、二人で片付けよろしくね。ごめん、これで僕行かなきゃだから。それじゃあよろしく」
 そう言って細田先生は、そそくさと職員室を後にした。
 「…それじゃあ、行こっか」
 あまりにぎこちなく渡は言った。
 「はい」
 二人「失礼しました」と職員室から出ると、階段を上り、二階の社会研究室へと向かった。これからの教室異動に伴って、要らなくなった過去の教科書や資料等の片づけを二人が任されたのだった。
 「あの、純太さ。別に俺、一人でやっとくから、部活行ってもいいよ」
 向かう途中、慎重に、言葉を選ぶように渡は言った。
 「いえ、さすがに先輩ひとりにやらせるのは気が引けます」
 「いや、今さ、教室で才花がいるから、あいつ呼んで二人でやれば…」 
 「いえ、大会前ですし才花先輩が怪我したらいけません。自分がやります」
 「そ、それはそうだね」
 二人社会化研究室の前に着くと、渡が鍵を開けて入った。
 中は普通の教室より少し小さめで、真ん中に職員用の机が二つ向かい合わせにされていて、部屋の壁沿っておかれた棚にはびっしりと資料や本が並べられていた。
 「たしか、ここからここは移動で、この段ボール箱。で、こっちからは全部廃棄でこっちの段ボール箱って感じで」
 「はい」
 「どっちやりたいとかある?」
 「どちらでも大丈夫です」
 「それじゃあ、廃棄の方お願い」
 「はい」
 純太はてきぱきと動き、すぐに作業に取り掛かった。
 渡はというと、未だに前の時の言葉が引っ掛かったままなのか、どこか気まずそうに、作業に向かっていた。
 二人沈黙する中、ただ紙と紙がこすれる音ばかりが部屋の中に乾いたように響く。
 渡は、自分の思っていたよりも量がある現状に、このまま沈黙で過ごすのはいたたまれないと口を開いた。
 「細田先生って、サッカー部の副顧問だったんだね」
 「はい。いつもお世話になってます」
 「グラウンドの草取りって言ってたけど」
 「そうなんです。いつも自分たちが朝練やる前に草取りしててくれるんです。自分らも手伝おうとするんですけど、大丈夫、やっとくから練習の準備とかしなって、ちゃんと宮沢先生にも言ってあるから大丈夫だって、言ってくれます」
 渡は感心した様に目を開いた。
 「そりゃあ、すごいなあの先生」
 「はい。すごい先生です」
 「おれ、ただの小太りの見た目と反してちょっと気弱な社会の先生ってイメージしかなかったらから、ギャップ凄いわ」
 「そうかもしれませんね」
 純太はそう言うと、少し考えるようにしてから「でも」と言葉を足した。
 「でも?」
 「でも、僕からすれば中学の時と、今の渡先輩の方がギャップがすごいです」
 ここで刺してくるかと、渡は口をぐっとつむった。
 「そ、そうかな」
 「はい。そうです」
 「こんな感じじゃなかったけ、中学の時も」
 渡は平静を保つように、ゆっくりと言葉を出した。
 「いえ、先輩はこんなに腑抜けたようではありませんでした」
 「腑抜けた?」
 腹の奥からあふれそうになった声を抑えたためか、渡の声は力んでいた。
 「はい。俺びっくりしたんですよ。確かに先輩、中学の最後の方からちょっと変わったとは思ってましたけど、こんな風になっているとは思いませんでした」
 純太は淡々と言葉を出しているが、その目にはどこか焦点が定まらないようで、悲しそうでいた。
 「こんな風、とは?」
 その問いに、純太は動かしていた手を止めて、渡の方を見て言い放った。
 「先輩、悔しくないんですか?」
 “先輩くやしくないんですか”と、その言葉を聞いて、渡はただ硬直した。あまりに心に刺さったのか、かれは全く動かなくなった。
 「だって、近くに自分より優れた人がいるのに、彼らに迎合してなれ合って、中学の時の先輩なら、楽しそうに話はするけど、どこかでこいつには負けないっていうものが目に宿っていたと思います。でも、今の先輩にはそれがありません」
 「そんなものは、元から無いと―」
 「いえ、ありました。赤海先輩を見る先輩の目はいつもそんな感じでした。なんなら才花先輩に向ける視線もそうでした。絶対にこいつに勝ってやるって。そういう目をしてました―」
 純太の淡々とした語り口調にも、次第に感情が乗るように語尾がコントロールできていない様子だった。
 「なのに、今の先輩はどうですか? 廊下で偶にすれ違う時、秋先輩と居ても、才花先輩と居ても、野球部の近藤先輩と居ても、渡先輩の目からは一つも目から闘志を感じません」
 責める純太の方が苦しそうでいた。
 「どうして変わってしまったんですか? なんでサッカーから逃げたんですか?」
 と純太が言い切るかどうかの時、とうとう渡が口を開いた。
 「あんま好き勝手いうなよ」
 それはとても冷ややかな声だった。その声に純太は息をのんだ。
 「悔しいかって? そりゃ悔しいよ」
 「なら―」
 「お前さ、天才って言葉知ってる?」
 「…はい」
 「あれ、化け物っていみだから」
 渡の目は完全に座っておらず、その光は消えていた。
 「あいつらって、俺ら凡人のこと簡単に踏みにじってくんだよ。知ってた?」
 「でも先輩は、赤海先輩に負けないよう努力して―」
 「だから、それが無駄なんだって。今のうちに覚えとけ。お前は秋にも、赤海にも、誰にもなれないんだよ」
 「努力すれば―」
 「なれないね。お前、部活オフの時ふつうに心の底から嬉しいでしょ?」
 渡は気味の悪い笑顔を向けた。
 「そんなこと…」
 「あいつら、普通に悲しいらしいよ」
 気づけば外から、雨が地面をたたく音がしていた。
 「おまえ、今みたいに土砂降りの時、外サボらず日課だからって走れる?」
 純太はくちをつむった。
 「無理でしょ? 才花は走ってたんだよ、どしゃぶりのなかでも。天才だって努力するんだ。いや、あいつらからすれば呼吸と一緒かもな。そんな呼吸もできない凡人がでしゃばんな。遺伝子なめるな」
 もう鬼も超えた魑魅魍魎の様な瞳で、渡は純太を見ていた。
 純太はその場から逃げ出すように、教室から出ていった。
 「あーあ、最悪だわ」
 ため息をつきながら、渡は残りの作業を一人で終わらせた。
 そしてあらかた片付くと、教室の外へと出た。
 「後輩いじめて楽しかった? いや、中学の時の自分て言ったほうが良かったかな」
 そこには才花がいた。
 「聞いてたの?」
 「うん」
 「いつから?」
 「最初から」
 「どう思った?」
 「天才様にはわかりませんよ」
 「あの時のこと根に持ってる?」
 「さあね」
 そう言って、才花はその場から立ち去った。
 階段を下りながら才花は小さく「これで戻ってくればいいけど」とだけ言い残した。
 どこまでも無慈悲に降る雨を、渡は窓越しに見つめていた。

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