見出し画像

ウーマン・トーキング

ウーマントーキング。
劇場で観なかったのを後悔した映画。


始まりから既に辛い展開でした。
朝、起きると体に違和感があり、ベッドも血で汚れている。
この手の経験は主人公たちの暮らす集落では珍しいことではなく、被害を訴えても「悪魔の仕業だ」、「妄想だ」とまともに取り合わない男たち。
加害者が釈放され戻ってくるまでに、今後どうするかを決める。というあらすじです。
あらすじだけでも色々な感情に呑まれます。


「許し、愛さなければならない、出来る時がくるかもしれない」
「生まれた時は加害者ではない、なにかがこうさせる。そうならないようにするのが教育。」
というような会話を劇中でしています。
近頃よく見る男女間の様々な問題についての議論も、終着点はここに近いのでは無いかと思いました。
世の中にはいろいろな愛があり、性愛だけではない。性的な成功体験の有無で人間は狂う。
なんと愚かなのか。
NOT ALL MEN、そんなのは分かっているんです。善人顔俳優ベン・ウィショーさんが出て女性たちの会議を支えます。
何を言うでもなく、与えられた議事録役を全うし、涙を流す。NOT ALL MENを体現してくれています。
行動に移す者、しない者。その差はなんでしょう。

自身の中にある衝動、それを実行する為の行動力、体力。なにかしらの欠如。
誰かに危害を与えてでも瞬間的な満足を優先出来てしまうのはなぜ。
集落という人間の集合体。立派な世界がそこにはあり、大小の差はあれど縮図の様は変わりません。

自身も暴力にさらされ、同じように被害にあった女性に攻撃的になる女性も登場します。
過去の被害体験に苦しみ、発作を起こす女性に目立ちたいのかと笑う女性。
このシーンを見て、この立場の女性を登場させてくれて良かったなと思いました。
だって、実際にもいるんだから。
ただ、その攻撃的な態度には何かしら理由があるとも思います。

この映画の中で、女性は牛に使われる鎮静剤を打たれ、眠っている間に被害に遭っています。
卑怯で許しがたい行為、その被害に自分も、誰かも遭っている。
その誰かが自分より苦しんでいた時、どう思うのか?
痴漢に遭ったら「私は嫌じゃない」、セクハラを受けたら「私は平気」 
そんなことを被害者に言う人間はいます。
許容出来ないことを攻めている訳ではなく、自身も同じような体験がありその記憶に対しての防衛反応。こういうパターンもあると思います。
中には運良くなんの被害にも遭わず、本当に理解が出来ないというのもあるかもしれません。
でも日本ではそんな人がいるのかと言いたくなるほど、性犯罪は日常に溢れかえり、その度に私は怒り、呆れ、何かを諦めてる感覚になります。
ひとりで耐えた時間が長ければ長いほど、被害やそれによる影響や現実を飲み込むのに時間もかかるのだろうと思います。
だからこそ結託が必要なんです。
犯罪を許すなら、結託ぐらい許してよ。


集落に残って戦うより、ここから離れるのが良いと思う。
戦いもせず、止まらないで進み続ける。
遠くからなら憐れむことも、もしかしたら愛する事も出来るかもしれない。
だから離れる。
立派な勝利だと思います。
抑圧された環境に身を置く事の危険性とは、正常な判断や個人の意思が反映した決定が下されにくい事だと考えています。
個性が薄れ、自己を見失う。
支配者には都合の良いことこの上ないでしょう。
だから離れる。
立派な勝利だと思います。

強制された赦しは赦しではないので、赦したくなければしなくていい。それすらさせてくれないなんて、底無しの見下しも程々にして欲しい。

私個人が出来ることなんてなにも無いです。でも考えるのをやめないこと、発信することは出来る。
誰かの支えになるなんて立派なことは出来ないかもしれません。
それでも人類が生まれてから抱えているであろうこの犯罪を許すなんて出来ません。


この世から一刻も早く性犯罪がなくなりますように、この世で一番罪深い犯罪に最も重い処罰が下されますように。
そう願わずにいられません。叶わない理想なのでしょうか。そんなに難しいのでしょうか。
性別問わず、誰もが安心できる環境を作りたいだけなのに。

私も立ち止まらず、進み続けられるように努めなければなりません。
1本の映画を観て10とは言わずとも6くらいは得たい。大人だからそれぐらい出来ておきたい。
戦いもせず、止まらないで進み続けるのもやる。
でも難しい、めっちゃ戦っちゃうもの、私。



正直に言いますが記事の終わり方に納得が出来ず、もう何か月も下書きに保存していました。
塩漬けしすぎたしょっぺえ記事、やめよう。

終わります。    正直者・おきらくでした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?