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困難な時ほど、夫婦になった気がする。その真意について。

夫婦って不思議な関係性だと思う。
恋人であるようで恋人ではなく。友達のようで友達ではなく。似たところがあるようで全く似てもなく。そして、似てなさすぎても、似すぎてもよくなく。
色々すれ違いがありながも、でも、この人と一緒に人生を歩んでいきたいと思う瞬間がたくさんある。
夫婦って不思議で面白い。

春が近づくにつれ仕事が忙しくなり、心身の調子が崩れてしまう人が増えてしまうのではないかと感じている。夫はまさにその1人で、仕事に押し潰されそうになっていた。
夜中に突然症状が表れた。頭が痛いわけでも、熱っぽいわけでもない。ただ、頭の中と胸が気持ち悪くて今まで感じたことがないしんどさ。頭の中を色々なことが駆け巡っていて忙しすぎると。
熱を測っても異常なし。じっと寝ていることができないと物凄く苦しそうにしている。
過呼吸のような症状も出てきた。私は病院を勧めることしかできなかったが、夫は拒否。家にある薬を飲むことも拒否。
ただ私はひたすら背中をさすった。それから、夫が好きな音楽をかけてなるべくリラックスできる状況をつくり、ハグをしながら「大丈夫」と言い続けることしかできなかった。「病院」というワードはもう出さずに。次第に症状が和らぎ、「ありがとう」という言葉と共に自然と眠りにつくことができた。

翌日もやはり体調が悪かったため、私は夫にふりかかっている原因を必死に解消しようとあらゆる案を提示した。しかし、夫は「ぼーっとさせてほしい」の一言。
私が余計に苦しめてしまっていたことに気づいた。

私がやっていたことは、エゴの救助。夫に逆に負担を与えていた。
よく、人を助けたがる人は、自分が満たされていないからだという意見を見聞きすることがある。
しかし思うこともある。別の側面に目を向けると、自分にしかできない力で、大切な人を掬い上げることができる。大袈裟かもしれないが、これくらい人として大切な感情を感じることができるのではないのだろうか、と思う。
仕事で言えば、自分が考えた企画、自分が考えた商品であらゆる人々が豊かな生活を送ることができているような、自分の力が世の中に浸透していっているような感覚ではないだろうか。

では、エゴの人助けと、真の人助けの違いはなんだろうか。
それは「観察力」だと思う。
相手が一体何を求めているのか、「自分だったらこうだから」で判断して動いていないかが、とても重要だと思う。
話を聞いてもらいたいのか、ボーッとしたいのか、相手の表情や態度から真の言葉を聞いていく。
ネットに載っているような「人を助ける方法」などではなく、自分が“その人“と関わっている中で携えてきた情報を基に、自分ができることを選択していくこと。
その情報はきっとどこのネットにも載っていない生身で貴重な情報であり、2人にしか分からない秘密の情報である。

現代はネット環境が充実しており、1人でなんでも解決することができる。好きなことで人と繋がることができるし、孤独を感じる時間は少ないだろうと思う。
しかし、側にいる人を全力で支えている時は、より「生きている」と実感できるし、「自分」というものを感じることができる。
私の中の「自分」を感じるとはどういうことかというと、自分の存在が存分に生かされているということ、自分自身の能力を発揮できているということ。
夫婦でなくてもいい。友達でも、親でも、他人でも。

私はもともと要領が大きくない人間であるため、自分の側にいる大切にしたい人達を支えるために、これからも観察力に磨きをかけていきたいと思う。




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