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チョコレートブラウンの板塀のある家 6

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正規のルートがあった!

叔父の啓介と昔話に花を咲かせていると、沢の辺りから全く役に立たなくなっていた雄介の携帯電話が、突然振動を始め、黒電話の仰々しいベルの音が鳴り響いた。
雄介が赤木家の再訪を果たした頃は、まだ携帯電話の方が幅を利かせていた。ずっと後になってスマホが普及したような気がする。

愛理が電話の向こうで、不機嫌だがそれ以上に心配そうに「一体、何処にいるの?おばさん達に会えた?事故してない?」と矢継ぎ早に質問を浴びせかけてきた。無事叔父さんに逢えたことを伝えると、愛理は安堵して電話を切った。

女性という生き物はどうして、少し連絡がつかないくらいでこうも心配するのか。否否、世の女性に失礼である。愛理が特別心配性なだけであろう。それが証拠に、郷里に帰ると言って出かけても、妻からは一度の電話もない。普段から、不在時に連絡を取り合う夫婦でもないので、当然と言えばそれ迄だが寂しい気もする。

叔父と話し込むうちに啓介の優しさは昔と変わっていないことに気が付いた。妻を亡くし、たった1人の同居人である実にも先立たれ、愚痴の一つも言いたかろうに、淡々とと近況を話してくれた。脳梗塞で倒れ半身まひが残り車椅子に頼っていること、時々三男の嫁や役場の人が来てくれること等をニコニコと話してくれた。

以前には無かった板塀について訊ねると、実が、自身の人嫌いから自作したのだとか。撤去するには労力も要るし、最近、田舎でも物騒な事件も多く、残しておくと決めたらしい。雄介は明るい叔父との会話中、ふとした拍子に板塀の隅から実が睨んでいるような気がして身震いした。
しかし(そんなわけないよな)と自分をとりなした


再訪を約束して暇しようと玄関に出る雄介を、門まで送るという叔父を制し深々と頭を下げた。すると叔父が
「車はどうした?音がしなかったが。」
「沢の所に置いてきました」
「さわ~!」
叔父は頓狂声をあげ、舗装された家の前の道は昔より幅広くなり、板塀の建位置で家との距離が変わっただけで昔からある事、雄介が幼いころ、通っていた道は抜け道だったことを知らされた。今はあの道は猟師ぐらいしか使わないことを教えてくれた。

叔父は、猟友会に電話して、雄介が害獣と間違われないように便宜を図ってくれた。我ながら、相変わらず手のかかる甥っ子であると苦笑いせざるを得なかった。いつ頃、害獣狩りに出歩くのか知らない雄介は、危うく撃ち殺されるところだったと胸をなでおろした。

アキヨの入院と、恩人の旅立ち




雄介の子達は高校生に、愛理の末子が大学生になり、静かだが忙しい日常に、郷里に足が遠のきがちになった頃、母のアキヨの入院が雄介姉弟に知らされた。
玄関先で倒れて動けなくなっているアキヨを、ボランティアの方が見つけ救急車を呼んでくれたという。
アキヨは、買物や通院にバイクを使っていたが、運転中でなかったことが幸いし、命を落とす事は無かった。

アキヨは、子供たちの懸命なリハビリの勧めにも耳を傾けず、両手足に麻痺が残り、発語不能になってしまった。
病院もそう長くは置いてくれないので、仕方なく介護施設に入所することになる。
介護施設では、様々な問題が発生したが、叔父の助言で子供たちは不満を飲み込まなければならなかった。少しの事が問題になる現在と違って、当時は、他人様にお願いすると我慢することも多いのだろうなと思っていた。

介護施設入所中に、アキヨの命の恩人が他界したと連絡が来た。しかし、母に知らせない事が雄介達姉弟間の暗黙の了解であった。
救急車を呼んでいただいた方には、普段から懇意にしていただき、独居老人の母にとって心の拠り所でもあった。
親族が居なくなった部屋での母のメンタルを想うと、悲報を伝えることなど酷で出来なかった。

我が子に手が掛からなくなった長子が、定期的に施設を訪れ、甲斐甲斐しく世話していた。
面会時間の間中1人で喋る雄弁な長子の顔を見つめて、発語不能なアキヨは時に嬉しそうに、時に真剣に頷いていた。また時折、孫やひ孫がくると弾けんばかりの笑顔で迎えた。退屈だが、田舎の家を一人で守る大変さはなく、好きなテレビを見て、アキヨは充実していたと周りは思っていた。

アキヨは、友達と草原を駆けていた。「さよちゃーん!はやく〜」「まって〜」あまりに楽しくてあたりが薄暗くなっていた。
「・・・さん…アキヨさん、お食事の時間ですよ」
介護士に呼ばれて現実に引き戻されて、暫くはこちらの世界にいた。だが、すぐに幼い友達との楽しい空間に戻って行った。
「アキヨちゃん、そのお人形貸してよ」「その肩掛け貸してよ」ダメよお母さんに買って貰ったばかりだもん」

歳月を施設で重ねるうちに、アキヨは時間の感覚、自分の年齢、記憶があやふやになりつつあった。お人形は長子に、友達が肩掛けと言ってる膝掛けは孫に買って貰った物だった。然も子供の時ではなく、施設に入所中の出来事なのに、願望が言葉になって迸る。
いつも幻想の世界にいる訳ではなく、正気に戻った時は幻想の世界の記憶はないらしい。

この頃啓介もまた、1人では生活できないほどの記憶障害を患っていた。近況を訊ねた雄介に、電話越しに従兄弟の三男が答えた。
姉のアキヨの話をしても首を傾げるばかりで、「実がそこで怒ってる。」と意味不明な事を言う様になったと言う。
老いとはかくも切ないものかと、雄介は、いつか自分にも訪れるであろう”老い“の遠くて微かな足音に怯えた。いくら振り払っても順番に年老いていくのだ。最後まで心身ともに健康でありたいと人はみな願うであろう。







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