希死念慮よりも怖いもの

忙しいときほど筆は進むもの。

どうも、音大でやらかしたものです。

本日は筆が進む進む…ということで記事2本立てです。


希死念慮をもって生きるということ

はい、わたくし、2年前にうつ(に近い状態)が1年近く続いたことがあります。

大学は休学し、十分に休養を取りました。

結果、1年ほどで回復し、復学を果たしました。

ただ、後遺症というべきでしょうか…定期的に希死念慮に近いものが湧いて出てくることがあります。

他にも「なんか変わったな」とか「怒りやすくなったな」と言われますが僕が一番感じているものは希死念慮です。

希死念慮とはなんぞや、という方にざっと説明すると「死にたい」と思うことです。

んでコレに近いもの…を言語化すると「定期的に消えたくなる。社会から距離を置きたい」です。

希死念慮とはまた別のもの…なのでしょうか、私では判断がつきませんので今回希死念慮ということにさせていただきます。

この希死念慮をもって生きるのは予想外に、しんどいです。

ちょっとのことでこの感情が湧いてきてしまう。

どうしようもなく、悲しくなったりあるいは怒りを感じたりします。

これに関してはもう付き合っていくしかない、と自分に言い聞かせています。

記事を読まれている方にも同じようなことでお悩みの方もいらっしゃるかもしれませんが、上手く付き合っていける方法を探すしかないと私自身は考えております。

もう哲学的な領域の話だもんね、心って。


希死念慮より怖いものってなんだ

そして本題。

希死念慮より怖いものが私にはありまして、それは

「見捨てられること」

周りに流されて生きてきた人間でございます。

周りから見捨てられるということはもはや死刑宣告に近いものであります。

一応、自炊の技術はありますし、最低限の社会的な生活は一人でもできると自負はしてますがそれ以上にキツイのが心の支えを失うこと。

誰にも相談できなくなることが何より辛いです。

というのも、希死念慮がまだ比較的薄いので実際に実行に移すかと言われるとその可能性は現時点では極めて低いものです。

なので、見捨てられることは希死念慮云々がどうでもよくなるくらいには致命的で耐えられないものとなります。

高校2年生くらいまでは陰キャのそれでしたし、実際に「ふん…自分は誰ともかかわらなくても生きていけるし、ネットでレスバしていればそれで満足」と本気で思っている人間でした。

が、一般的なSNSに触れてから考え方が一変。

もうこの環境離れるくらいだったら死んだ方がマシ、と思うように。

ある意味、コミュ障かもしれません。

もしくは、依存しがちなのかも。


現実逃避

ある日、「お前は来月には家を出てもらう。いい歳してニートして、ぐうたらしてるやつは要らん」と言われたら。

全てがどうでもよくなって何をするかわからない。

人間、失うものが無くなった時が一番恐ろしいものであります。

それこそ、現実逃避のためにギャンブルに全ツッパするかもしれませんし駅で暴れるかもしれません。

まぁ、現時点ではそのような予兆はありませんしそもそもまだ学生です。

でも、学業がこの先上手く行かず、ニートになったらありえなくないかも。

現実逃避といえば、今も結構逃げていますね。

記事を書くネタが山のように湧いて出てきて、楽器清掃が進みません。
明日、レッスンなので3か月触ってない楽器は整備しないと確実に動きません。

が、危機感は既に明後日の方向へと飛んでしまったようです。

…まぁ、普段からこうやって逃げているのでそのうちこのツケも回ってきて痛い目見るんだろうなぁと思ってます。

あぁ、明日の講義も怠い。

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