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2024.7.7<新版>2.記紀の隠された論理的事実:2-1,2,3,4,5


2.記紀の隠された論理的事実

2-1.記紀の皇統の「DNA種族」

(注)男性は、Y-DNAで表記される核染色体遺伝子のハプログループ(遺伝子分類群)です。女性はミトコンドリア遺伝子のミトコンドリアハプログループ(遺伝子分類群)ですが、女性遺伝子は遺伝子数が少ないため種族・部族の分類に対応させられないので、女性は便宜的に同じ種族の男性の「DNA種族」・Y-DNAを援用して、「母系DNA種族」・「Y-DNA相当」の表記を用いました。

「DNA種族」は、皇統の同一な継承系統を示すレベルのグループで、歴史的に特徴ある種族を便宜的に対応させたものです。これにより、皇統および王統の継承系統の推移が明らかになります。
記紀の倭王『大王』は、多くの「DNA種族」からなり、つまり、中国で言えば易姓革命による王朝変更で、万世一系ではありません。
しかし、「DNA縄文人」である父系制倭国政事統括者と「母系DNA縄文人混血呉越系倭人」である母系制倭国『大后』は、それぞれ一つの「DNA種族」からなる万世一系です。
 
①「DNA匈奴」・Y-DNA「O2a1系」
(注)匈奴の近国王朝は、秦(紀元前905年~紀元前206年)、高句麗休氏/高氏朝、高句麗金氏朝、百済金氏朝、新羅借用昔氏&金氏朝。新羅金氏朝。
①-1. 「DNA匈奴金氏」・Y-DNA「O2a1a系」
 <新羅借用昔氏&金氏朝(倭名は大国朝)>
・初代大国主・スサノオ=新羅第9代借用昔氏&金氏伐休尼師今(在位:184~196年)=金官加羅王初代金首露。
・第2代大国主・大歳=ニギハヤヒ=新羅太子・葛文王骨正=第10代崇神。
・第3代大国主・事代主(兄)=新羅第11代借用昔氏&金氏助賁尼師今(在位:230年~247年)。
・第4代大国主・建御名方主(弟)=八坂入彦=新羅第12代借用昔氏&金氏沾解尼師今(在位:247~261年)。
<新羅金氏朝>
・第3代安寧:父が新羅葛文王金仇道、祖父が新羅葛文王骨正=第二代大国主・大歳。
・第16代仁徳:3安寧の弟の二男。
・第3代安寧の弟の長子系の反正朝:18反正、19允恭、20安康、百済第25代武寧王。
・仁徳庶子系の継体朝:(雄略朝疑似継承:25武烈)、26継体、27安閑、28宣化、30敏達、32崇峻。
・第26代継体庶子の欽明朝:29欽明=蘇我稲目、33推古A達頭=上宮法王、34舒明、(末王)36孝徳。
<第34代舒明傍系の親新羅の倭国亡命政権>
・第37代斉明A淵蓋蘇文=重祚第40代天武。
 
①-2. 「DNA匈奴休氏ニニギ族」・Y-DNA「O2a1c系」

・神武Bニニギ朝:初代神武B憂位居(ユウイキョ)、2綏靖(スイゼイ)、4懿徳(イトク)。
・丹波道主・谿羽道(タニハミチ)主命:鮮卑族慕容部に臣属した神武Bニニギ朝後裔。
    
*①-3.「DNA秦王・秦氏系」・Y-DNA「O2a1b系」
・秦始皇帝(嬴姓趙氏)はY-DNA「O2a1b1a2a1a1a(CTS6279)」。
・秦河勝(子孫としては、楽家の東儀家、猿楽の始祖観阿弥・世阿弥親子、四国の戦国大名の長宗我部元親など)は、Y-DNA「O2a1b1a2a1a1a1(F25545)」。
 
②「DNA鮮卑族」・Y-DNA「O2a2系」
(注)前族や和邇氏の遠祖は日本列島や朝鮮半島の遊牧狩猟族であるので、「DNA源流鮮卑族」と本論では称します。日本列島を地盤としたのは「DNA源流鮮卑族前(サキ)族」・Y-DNA「O2a2a系」と「DNA源流鮮卑族八前(ヤサキ)氏/新羅昔氏」・Y-DNA「O2a2a系」です。これに対し、中国東北部から朝鮮半島南部を地盤としたのは「DNA源流鮮卑族和邇氏」・Y-DNA「O2a2b系」で、後に春秋時代燕(紀元前1100年頃~紀元前222年)に属しました。「DNA源流鮮卑族和邇氏」から「DNA鮮卑族慕容部」が分枝しました。
(注)鮮卑族の近国王朝は、箕子朝鮮(古朝鮮)、漢(紀元前206年~紀元後8年、25年~220年)、新羅昔氏、北魏(386年~535年)、前燕(337年~370年)、隋(581年~618年)、唐(618年~907年)、高麗(936年~1392年)、李氏朝鮮(1392年~1897年)、大韓帝国(1897年~1910年)。
 
②-1.「DNA源流鮮卑族前(サキ)族」・Y-DNA「O2a2a1a1b(CTS201、M188等)」
・鮮卑族初代神武A八前(ヤサキ)氏脱解(タレ)=高句麗第3代大武神(タイブシン)王脱解(タレ)(在位:18~44年)=新羅第4代昔(ソク/ソ)氏脱解(タレ)王 (在位:57~80年)=但馬一之宮出石神社祭神・出石八前(ヤサキ/ヤマエ)大神=住吉神社祭神・底筒男命。
*高麗王・王建:Y-DNA「O2a2a1a1(M188, subclade-CTS201)」。
*呉延寵(海州呉氏:始祖は羅州の呉仁裕)、服部保長と服部正成先祖が伊賀国出身である播州姫路藩士・松原夏蔵:Y-DNA「O2a2a1a1b(CTS201, subclade-F4010.2, F1531)」。
*楚の武将、西楚の覇王と呼ばれた項羽(紀元前232~紀元前202):Y-DNA「O2a2a1a2(M7)」。
*前漢の高祖・劉邦(紀元前256~紀元前195):Y-DNA「O2a2b1a1a1a1a1a(F316)」。
  
②-2.「DNA源流鮮卑族和邇氏」・Y-DNA「O2a2b1a(F450/M1667)」
(注)朝鮮半島中南部を地盤とし、辰王号を借用して使用。
・垂仁朝疑似継承:13成務。
・応神朝:15応神、17履中。
・17履中傍系雄略朝:21雄略、22清寧、23顕宗、重祚24仁賢(=21雄略)。
・17履中系天智朝:38天智(34舒明の養子)、39弘文、(藤原不比等)。
  
②-3.「DNA鮮卑族慕容部」・Y-DNA「O2a2b1a1(M117)」
(注)朝鮮半島を南下し、伽耶・新羅・百済を侵攻。前燕を建国。
・垂仁朝:(古志朝疑似継承王:9開化)、11垂仁、12景行、14仲哀。 
  
③ 「DNA縄文人混血呉系倭人朴氏」・Y-DNA「O1b2系」:高句麗倭人系古志朝
・6孝安=高句麗王族分国の大加羅国王子・天日槍(アメノヒボコ)、7孝霊、8孝元。 
(注)檐魯(タムロ)は、王族統治の分国・居留地の意。「檐魯(タムロ/エンロ)」を語源とする地名には「眈羅(済州)、淡路(兵庫県)」がある。
 (注)古志朝の形式的継承元の第5代孝昭は、「DNA匈奴」である前趙(漢)第3代劉氏昭武帝劉聰に比定。前趙(漢)第3代劉氏昭武帝劉聰は、第11代垂仁=慕容皝(コウ)が臣族していた宗主。
 (注)近国王朝は、春秋時代呉(紀元前585年頃~紀元前473年)、春秋時代越(紀元前600年頃~紀元前306年)、扶余国、高句麗呉系倭人朝(倭名は古志朝)、新羅朴氏朝。
 
④ 「DNA呉系倭人混血縄文人物部(蘇我)氏」・Y-DNA「D1a2系」:高句麗物部(蘇我)朝
(注)「DNA呉系倭人混血縄文人」である8歳の物部宇麻呂=物部(蘇我)馬子は、「DNA匈奴金氏」である母方祖父の蘇我稲目(506年生~576年歿)=第29代欽明(キンメイ)が実父であるとされて、『大連』物部入鹿により高句麗王に擁立された。これが悲劇の原因となった。記紀は物部(蘇我)朝を蘇我朝に改ざんして繰り入れた。本書では、蘇我氏と物部(蘇我)氏とを区別表記した。
・31用明A=物部宗本家14代物部宇麻呂=物部(蘇我)馬子(551年生~628年歿)=高句麗第25代平原王(在位:559~590年)。
・35皇極A=物部宗本家15代物部(蘇我)蝦夷(586年頃生~642年歿)=高句麗第27代栄留(エイル)王(在位:618~642年)。
・物部宗本家16代・高句麗太子・物部(蘇我)入鹿。
 
⑤『大后族』:「母系DNA縄文人混血呉越系倭人」・Y-DNA相当「O1b2系」
(注)中国江南地域に居住していた春秋時代呉人モン族や春秋時代越人ヤオ族は、秦の始皇帝や漢の武帝によりほぼ全員が中国東北地方に強制移住させられ、現在の中国江南地域にはほとんど後裔がいません。
⑤-1.「母系DNA縄文人混血呉系倭人」・Y-DNA相当「O1b2a1a1(CTS713)」
・ 記紀編纂者達の「トベ」系統の倭国『大后』。
 
⑤-2.「母系DNA縄文人混血越系倭人」・Y-DNA相当「O1b2系」
・春秋時代越第一位祭祀女王の後裔の「戸売(トメ)」系統の倭国『大后』。

2-2.記紀の歴代倭国『大王』は歴代高句麗王(227年~642年)と歴代百済王(304年~660年)を単純合成した皇統譜

 記紀の歴代倭国『大王』は、第11代以降の歴代高句麗王(227年~642年)と第11代以降の歴代百済王(304年~660年)と同一人で、彼らを単純に合成した皇統譜です。つまり、記紀の歴代倭国『大王』の皇統譜は、高句麗王と百済王との重複者がいますが、概ね2倍の年数となります。したがって、記紀の歴代倭国『大王』の在位期間の西暦表示は原理的にできません。

(1)高句麗王統

 表6.高句麗王統の「DNA種族」と同一人の記紀の倭王『大王』

(注)〇印は小林恵子が証明したこと。△印は本著による推論結果あるいは追加したこと。
(注)高句麗王妃は、実名、通名、隠名等が一切三国史記、記紀には残されていない。

   高句麗第11代高氏始祖東川王憂位居(在位:227~248年)(=神武天皇B憂位居)以降の高句麗王で倭王の称号をもたないのは、「DNA種族」が違う高句麗第20代氐(テイ)族馮(フウ)氏長寿王(在位:413~491年)と高句麗末王の[架空王]第28代宝蔵王(在位:642~668年)の二人だけです。
 ①倭国が『倭王・大王』を拒否した高句麗第20代氐(テイ)族馮(フウ)氏長寿王高璉(コウレン)(在位:413~491年)
 高句麗第19代鮮卑族安氏広開土王/好太王(在位:391~412年)[=第16代仁徳天皇]は、前燕鮮卑族慕容部の慕容垂により擁立されました。
「DNA氐(テイ)族」・Y-DNA「[O2(M122)]である馮(フウ)氏高璉(レン)は、北魏の命に従って、高句麗第19代安氏広開土王/好太王(在位:392~413年)[=第16代仁徳=新羅第17代金氏奈勿尼師今(在位:356~402年)]を三韓から追放し、事実上敗死させました。
    427年、北魏が氐(テイ)族馮(フウ)氏高璉(コウレン)を高句麗第20代馮(フウ)氏長寿王高璉(レン)に封じました。
    しかし、倭国『大后』と倭国連合府(朝廷)は馮(フウ)氏高璉(レン)[=高句麗第20代馮(フウ)氏長寿王高璉(コウレン)(在位:413-492年)]には『大王(=天皇)』の称号を承認しませんでした。高句麗第19代安氏広開土王は、第3代安寧(アンネイ)[=高句麗蜜友(ミツユウ)=新羅第13代金氏始祖味鄒(ミスウ)王(在位:262~284年)]の甥である貴種であったからです。
 そして、高璉(コウレン)が高句麗王に在位した413年~492年の間は、第18代反正(ハンゼイ)=百済第19代久尓辛(クニシン)王(在位:420~427年)、第19代允恭(インギョウ)=百済第20代毗有(ヒユウ)王(在位:427~455年)、第20代安康=高句麗太子安興(宋書)=新羅金氏第9代・新羅第20代金氏慈悲・麻立干(マリツカン)(在位:458~479年)、第20代安康の継嗣の百済第25代武寧(ブネイ)王(在位:501~523年)=島君(セマキシ)/斯麻(462年生~523年歿)が生存していました。

②高句麗末王の架空王の第28代宝蔵王(在位:642~668年)
    高句麗第28代(末王)宝蔵王(在位:642~668年)は、高句麗宰相・将軍・淵蓋蘇文(エン・ガイソブン)(=第40代天武(テンム)天皇[在位:673=686年])が擁立した架空王です。
 唐は、宝蔵王を捕虜として連行しますが、高句麗王の実体がなく、釈放します。 

(2)百済王統

 表7.百済王統の「DNA種族」と同一人の記紀の倭王『大王』

(注)〇印は小林恵子が証明したこと。△印は本著による推論結果あるいは追加したこと。
(注)百済王妃は、実名、通名、隠名等が一切三国史記、記紀には残されていない。

倭国『大王』の顔を持たない百済王は三人います。
①死後追贈された百済第12代契(ケイ)王(在位:344~346年)。
②三韓混乱期の百済第16代辰斯(シンシ)王[=難波根子建振熊(タテフルクマ)命]。
③第26代継体の摩腹子(養子)の百済第25代武寧(ブネイ)王。
 
②百済第16代辰斯(シンシ)王(在位:385~392年)=「DNA源流鮮卑族和邇氏」の難波根子建振熊(タテフルクマ)命
 第11代垂仁天皇から始まった「DNA鮮卑族慕容部」の垂仁朝は、第16代仁徳によって滅ぼされました。
 記紀は、氐(テイ)族符洛の渡来征服により、第14代仲哀=百済第13代近肖古(キンショウコ)王(在位:346~375年)の継承者の麛坂(カゴサカ)皇子、忍熊(オシクマ)皇子が滅ぼされたと記しています。
 これにより、百済王が空位(第一期:375年から420年)となります。
 記紀と三国史記は、この百済王位の空位期を利用して、「DNA源流鮮卑族和邇氏」の難波根子建振熊(タテフルクマ)命を百済第16代辰斯(シンシ)王(在位:385~392年)に捏造します。したがって、百済第16代辰斯(シンシ)王(在位:385~392年)には、倭王『大王』の称号がありません。難波根子建振熊が実際に百済王に即位したのであれば、倭王『大王』を追賜されていてもおかしくありません。

③百済第25代武寧(ブネイ)王(在位:501~523年)
 百済第25代武寧王斯麻(在位:501~523年)(462生まれ~523年歿)は、第21代蓋鹵(ガイロ)王(在位:455~475年)[=第20代安康=高句麗太子・興]の継嗣でした。そして、第26代継体の『摩腹子(注:新羅では、身分の低い官吏が妊娠した妻を自分の上役に贈る制度。)』になります。斯摩が倭国で生育していることが、正統な継嗣であることを示しています。高句麗、百済の混迷のため、斯摩は39歳頃まで倭国にいました。
 第26代継体の実子であった百済第24代東城王牟大(ムタイ、在位:479~501年)は、武寧王を阻止するために第26代継体が百済太子に送り込んだのですが、百済王位を剥奪して王位についたので、百済臣下から追放されました。
 501年に百済第25代武寧王(在位:501~523年)はやっと即位しましたが、第26代継体は高句麗王、百済王の正統な後嗣である武寧王は自分の王位正統性をなくすものであるので、武寧王には倭王『大王』の称号を阻止しようと動きました。
 つまり、朝鮮半島と日本列島の覇権を握った第26代継体は、兄の子の百済第25代武寧王(在位:502~523年)には倭王『大王』を与えませんでした。
百済第25代武寧王が、和歌山県隅田(スダ)八幡神社所蔵の国宝「人物画像鏡」の銘文に叔父(弟王)・第26代継体を扶余の最高王の意の「日十(カ・ソ/ヘ・ソ)大王」と記し、忖度(ソンタク)した背景があります。
 
 高句麗王や百済王の顔をもたない例外の倭王『大王』は、以下の四人がいます。
①第10代崇神天皇=ニギハヤヒ(形式的承継元)。
②雄略朝第23代顕宗天皇(即位が応急的な繋ぎで、記紀編纂時に捏造)。
③欽明朝第32代崇峻天皇(即位が一時的で、記紀編纂時に捏造)。
④舒明朝第39代弘文(コウブン)天皇(明治3年(1870)に追諡(ツイシ)。
①第10代崇神天皇=ニギハヤヒ
 第10代崇神天皇がニギハヤヒ=大歳であることは、『大妃』「妃」が同一人から比定しました。
 「DNA鮮卑族慕容部」の第11代垂仁(スイニン)天皇[=百済第11代比流(ヒリュウ)王(在位:304-344年)=前燕初代文明帝慕容皝(コウ)(在位:337-348年)]は、「DNA匈奴」である漢の臣下でしたので、皇位正統性が最初はありませんでしたが、その後中国皇帝に即位しているので、形式的な継承元は不要であると考えられます。
 これは、中国王朝の支配力が強い西倭国の『大王』は形式上前趙(漢)第3代劉氏昭武帝劉聰(在位:310~318年)を第5代孝昭天皇においたのに合わせたものにするためと、記紀編纂者達の遠祖のヤマト初統一したニギハヤヒの権威を挙げるためでもあったのでしょう。垂仁朝が、倭王『大王』の系譜には不要であり、倭国『大后』の系譜のために挿入した配慮があったのでしょうか。
 
②雄略朝第23代顕宗(ケンソウ)天皇弘計 
 新羅系譜の史料「花郎世紀」は、新羅王族・朴英失は第24代仁賢(ジンケン)天皇億計と同一人と記載しています。「DNA源流鮮卑族」和邇氏である第21代雄略天皇[=新羅王族・朴英失=百済第22代牟(ム)氏汶洲(文周)王(在位:475~477年)]は、第24代仁賢(ジンケン)天皇億計(=新羅王族・朴英失)と同一人となり、第23代顕宗(ケンソウ)天皇弘計は、第21代雄略天皇と双子の弟であることが考えられる架空王です。、迷信から地方に引き離されていたと考えられます。
 
③欽明朝第32代崇峻(スシュン)天皇
 587年丁未、丁未の乱が起こり、蘇我馬子(=用明天皇=第16世代物部馬古)が、血統の誤解により物部氏第15世代『大連』物部守屋を滅ぼしました。蘇我馬子の実妹&伴侶で、物部守屋の異父妹である物部本宗家伴侶の額田部皇女(554年生~628年歿)を巻き込んだ「DNA弥生人混血縄文人」がもつ覇権の奪取をかけた倭国史上最大の内乱でした。
 587年、蘇我馬子(551年生~626年歿)は丁未の乱により自責により倭王『大王』を即剥奪されました。応急繋ぎで、異母(母は、蘇我稲目の娘・蘇我小姉君)の第32代崇峻(スシュン)天皇が継承しました。その後、聖徳太子が第32代崇峻(スシュン)天皇を廃皇し、崇峻(スシュン)天皇は蘇我馬子に殺されました。
崇峻(スシュン)天皇が在位している時は、百済は第27代余氏威徳(イトク)王余昌(在位:554~598年[=第30代敏達(ビダツ)天皇]が在位中でした。

 (3)新羅王統 

 高句麗王か百済王の顔がない新羅王は、表7に見られるように倭王『大王』の顔がありません。これは、倭王『大王』は、扶余族盟主の後裔である高句麗王と百済王に付随した称号で、属国的であった新羅は、扶余族盟主の後裔でないので、倭王『大王』の称号は付随しません。

 表8.歴代新羅王と同一人の倭王『大王』、高句麗王、百済王

倭国『大后』は、高句麗王妃と百済王妃と新羅王妃と金官加羅国妃(注:金官加羅国は新羅王族分国であったので、妃の位でした。)と連枝した天上の第一位政事為政者でしたが、統一新羅になって他国との連枝を隠蔽したため、高句麗王妃と百済王妃は、記紀と三国史記から通名も含めた一切の名が隠蔽されました。その中で、倭国『大后』と同体である新羅王妃とは、家族関係から同一人を比定することが表8に示すように可能でした。

 表9.新羅王と新羅王妃と同一人の記紀の倭王『大王』と倭国『大后』

2-3.倭国の政事統括者は万世一系の「DNA縄文人」

 倭国の政事統括者は、何千年から何万年にわたって万世一系の倭国の部族同盟を統括した大首長(後年の『大連』)で、圧倒的な人力、軍事力、財力、輸送力、情報力をもった「DNA縄文人」です。
 記紀の歴代倭国『大王』皆は、倭国の為政者であったり、倭国の領国を直接支配したりしたことはありません。

2-4.倭国『大后』の二つの系統

 古くからの呉系「トベ」系統・Y-DNA相当「O1b2系」と紀元後の越系「戸売(トメ)」系統Y-DNA相当「O1b2系」があります。
 日本列島を12万年にわたり原住し、統治した「DNA縄文人」と最初に部族同盟による通婚したのが「母系DNA呉系倭人」である弥生人の女首長『トベ』です。『トベ』は、女性あるいは男性の巫術(フジュツ)者ですが、本書では『トベ』は、女性の倭国『大后等』だけを指すものとして用います。

女性あるいは男性の巫術(フジュツ)祭祀者である「トベ(戸畔、戸弁、戸辨、戸辺、戸邊、戸邉、刀俾、戸部、富部、砥部、土部、等)」は、各地に存在記録が残っており、「トベ」の漢字の種類も多いのが特徴です。女性「トベ」は、系譜や相互の関係が残っていませんが、先住の日本列島各地に居住していた「DNA弥生人混血縄文人」と通婚した「母系DNA縄文人混血春秋時代呉系モン族倭人」であるとみられます。
 呉系トベ」系統の各地の例として、表10に示します。
 
表10. 呉系「トベ」系統の各地の例

「トベ」の名をもつ地名例です。
 ・戸部町(横浜市)
 ・戸部川(神奈川県)
 ・尾張国愛智郡戸部村
 ・伊予国伊予郡には砥部村→砥部町がある。
 ・信濃国斗女(トメ)郷は戸辺または富部(トベ)と呼ばれていた。
「トベ」の名がつく姓氏例です。
 ・戸辺(戸邉・戸邊)姓:千葉県(特に野田市)および関東の利根川沿いに集中している。
 ・戸部姓:群馬県に集中している。
 ・富部姓:静岡県に集中している。
 ・土部姓:神奈川県と富山県に集中している。

一方、「母系DNA縄文人混血越系倭人」の第一位祭祀女王である「戸売(トメ)」系統は、春秋時代越の第一位祭祀女王の後裔で、但馬と出雲と信州が本拠地で、系譜も残っています。
    ヤオ族の春秋時代越の王朝は、第一位が祭祀女王、第二位が政事男王でした。春秋時代呉は、第一位が政事男王、第二位が祭祀女王でした。後に、呉系「トベ」系統の倭国『大后』も、「戸売(トメ)」系統の第一位女王のアイデンティティを受け継ぎます。したがって、天上の祭祀女王が、地上の政事男王『大王』に下がる記紀の女帝は論理的にありえません。

女首長の地位を向上させたのは、270年頃に朝鮮半島加羅から「DNA匈奴金氏(倭名はオオ(太/大/多)族)」の大歳[新羅金氏5代・新羅葛文王骨正=第二代大国主・大歳=ニギハヤヒ(大物主B)=奴奈川彦=フル(古代高句麗語名)=第10代崇神]と共に来島した「母系DNA越系倭人」の第一位祭祀女王の後裔である越系「戸売(トメ)」系統の宇迦御魂命(ウガノミタマノミコト)[=二代戸賣(トメ)・沙本之大闇見戸賣(サホノオオクラミトメ)=御間城(ミマキ)姫(10代崇神天皇の皇后の時代)=新羅金氏玉帽夫人=二代伽耶媛・宇迦御魂命(ウガノミタマノミコト)=加羅名:天知迦流美豆比賣(アメノチカルミズヒメ)=古代高句麗語名:ウガ=オオ国オオゲツヒメ=尾張国大海媛/大倭媛=高志国沼河姫=意富国阿麻(オオアマ)比売=葛木国高名姫命]です。宇迦御魂命(ウガノミタマノミコト)は、ヤマト東遷の途中に倭国の本拠地の但馬地方に寄っています。すでにこの時代でも日本列島と加羅・新羅の二つを本拠地としていました。また、宇迦御魂命は、他部族と同盟通婚したため、当時の日本列島の主拠点を示す別名をもっています。

高句麗と百済の建国女王・召西奴(ソソノ)も「母系DNA越系倭人」・Y-DNA相当「O1b1系」です。

「春日」は、「カ(加羅)・ス(村)・ガ(人)」=「加羅村の人」の意ですが、大賀羅国となる春日国を建国したのは、先住の「DNA縄文人混血呉系倭人」ではなく、「母系DNA越系扶余人 」である初代伽耶媛で初代戸賣(トメ)の春日建国勝戸賣(カスガノタケクニカツトメ)=加羅名:神大市比売(カムオオイチヒメ)です。神大市比売(カムオオイチヒメ)は、「DNA匈奴金氏」・Y-DNA「O2a1a系」であるフツシ(古代高句麗語)=スサノオの伴侶です。春日国は女王国であり、春日氏は本来女性氏族名だったのです。
 
(注)「クラミ(倉見、闇見)」の音韻変化語は「カグ(香久)」、「カゴ(籠)」
「クラミ(倉見、闇見、kurami)」は音韻変化して「カグ(香久、kagu)」、更に音韻変化してカゴ(籠、kago)」になりました。
「クラミ(倉見、闇見)」の語源は、山風を利用した山谷での初期の鉄・鍛冶の業に由来し、その後、フイゴに移ります。
 天香久山の「カグ(香久)」、籠神社の「カゴ(籠)」は、朝鮮語の「金」や「銅」を意味する「カル」で、「クラミ(倉見、闇見)」と同意語であり、そして、「神聖な器=籠」の意味もあります。
 「籠」を編む竹が驚異的な成長力をもつことから中国大陸以来神聖視されました。竹で編んだ「籠」は、魚の入れ物であり、平安時代以前、神への供物入れでした。
 「カゴ(籠)」が二つの異なる意味を持っているのは、鉄・鍛冶の濊族(山神系)と漁業・農業(海・河神系)の中国江南人との部族合体、文化合体の由緒を象徴しているからです。
 この二つの流れを引き継いだのは、「DNA呉越系倭人混血縄文人」です。闇見国、籠神社は、弥生人系のものとの通説は正確ではありません。「DNA呉越系倭人混血縄文人」男性と「母系DNA呉越系倭人」女性の共同体です。

2-5.天上の第一位非政事為政者の倭国『大后』、そして、四韓の王妃との二つの顔

 「DNA縄文人混血呉越系倭人」・Y-DNA「O1b2系」の祖郷は、中国江南地域にありました。秦始皇帝や漢武帝により強制移住させられたため、祖郷の中国江南地方には後裔が現在全くいません。
 「母系DNA縄文人混血呉越系倭人」である母系制・群婚制の倭国『大后』は、扶余族盟主(濊族、高句麗王、百済王)の王権の人的象徴で、倭国と四韓の天上の第一位非政事為政者であり、四韓の王妃との二つの顔をもっていました。
 記紀の倭国『大王』の四韓との二つの顔は、倭国『大后等』を模倣したものです。

倭国『大后』は、非政事為政者として、祭祀、継嗣出産・生育、非政事統括者の継承者の指定権、政事統括継承者の指定権・承諾権・婚姻者指定権、後宮管理、母系の財産相続権、等の大きな権限をもっています。
 母系制に従って、四韓の継嗣は安全な倭国の『大后』の一族で生育され、成人すると朝鮮半島に永久回帰します。スサノオやアカルヒメが言うように「倭国は(四韓の)母の国」の由縁です。

また、倭国『大后』は、流浪の強いトラウマがあり、安全な倭国と本貫の伽耶・新羅の二拠点体制を保持しました。

統一新羅は、独自の国体を示すために、高句麗や百済や倭国との王族の連枝を隠蔽し、高句麗王妃と百済王妃は三国史記、記紀等から一切隠蔽されました。しかし、倭国『大后』族と新羅王妃族は同体家族であったので、倭国『大后』は新羅名をもっており、史料にかなり残されていました。特に、新羅貴族の金大問が704年に執筆した「花郎世紀」の新羅王族の詳細な家族関係から新羅名の比定が可能でした。

  表11.呉系「トベ」系統の『大后等』の系譜と新羅名

(注)〇数字は、相対的な世代数。

  表12.(推敲中)継体朝以降の「トベ」系統の『大后等』の血縁系統図

(注)〇数字は相対的代数。

  表13.越系「戸売(トメ)」系統の倭国『大后』の系譜と新羅名

(注)〇数字は、相対的な世代数。

<以上>