丹後に出かけました
私の担当するギャラリーにもう10年余出店を続けている女性作家がいる。オン歳82歳。チャキチャキの江戸っ子で、生まれは東京の三田。私の母親と同じ世代だから、昭和初年の生まれ。「東京なんて何もなかったんだからー。小さい頃、家でカボチャを作ってたんだけど、大きくならないうちに全部食べてしまったから、カボチャが甘いなんて知らなかった。」と大きな声でガラガラと笑いながら話されます。昭和の初期の貧しい日本の時代。東京でも食べ物に苦労したそうです。「同じ日本の話とは思えない話ですねー」と私が言うと、「本当にね。戦争、戦後の復興、バブル、不況、大地震、コロナ。私たちの世代は本当にいろんな経験をしてきた。だから、同じ世代は皆逞しいですよ」。この先生、売上では当ギャラリーでは1番か2番をずっと10年続けて、尚且つ、いまだに新規のファンが増え続けています。
久しぶりに車で、京丹後と近江八幡を回ってきました。名神高速で米原から北へ入り、敦賀から日本海沿いを一路西へ向かいます。4時間近くの工程です。はるか昔、この海沿を北前船が行き交っていた様子を思ってみます。京都の着物文化を支えた織物の里、丹後地方は、多くの機屋が軒を並べ、機織りの音が鳴り響いいていた里でした。
丹後のばら寿司。鯖のそぼろをたっぷり使ったばら寿司は、地元の鳥松がその美味しさを全国に広めて有名になりました。聞くと、このばら寿司は、この地方で広く親しまれる郷土料理で、機会あるごとに、家庭で作られてきたお寿司だとのこと。お祭りの時、都会にでた子供たちが帰郷した時、さまざまな場面で思い出と結びついている料理です。海が近くにある土地が、鯖をたっぷり使った料理を生み出したのでしょうか。織物の機屋さんはずいぶん少なくなって寂しい風景となりましたが、ばら寿司は、今も地元にとどまらず、全国で愛されて丹後の食文化を伝えています。
お祭りや、お祝い事などで作られるお寿司。おもてなしの料理としての寿司の文化が地方地方にあったのでしょうか?私の実家のある岐阜県の美濃地方にも、寿司を朴の葉で包む朴葉寿司がありました。母親の得意料理で、朴の香りが寿司に移って匂いも美味しいお寿司です。朴の殺菌作用も重宝されていたのかもしれないと思います。日本全国に大小関わらずに数えると莫大な数のお祭りがあります。お祭りの時に作られる郷土料理を訪ねてみると、地方の文化とか自然の恵みがずいぶん楽しめるのではないかと思いながら、あちらこちらと車を走らせています。
丹後が面白いと思い訪ねる機会が増えましたが、最近面白さが増したのは、移住者が多い土地だと教えてもらったからです。アーティスト、音楽家をはじめ、織物に魅せられて移住する人は昔も今も絶えないようです。ただ、丹後地方は広いので、移住者同士のつながりとか、地域が離れていると同じ丹後という意識はないようで、私が聞き知った人をある丹後の人は知らないというようなことがままあります。土地が広く、密集していないのが原因なのでしょうか?それとも、人たちを結ぶ情報や人のインフラが整備されていないのからなのか。人たちを結ぶ、人のインフラなんてカッコよく言ってしまったけれども、今、一番欲しくて、行政などが力を入れているのがこれなのかもしれませんね。でも、土地土地を訪ねていると、その地域の中心になる人がいます。織物の里であれば、織り手でかつ同業者のまとめ役みたいな人が。役職についている人もいれば、人望で人が集まってくる人もいます。都市化された地域では難しいですが、地方に行けばそのような人が結構おられます。そんな人たちに会うと、ホットします。外から地方の文化と技を紹介したいと思っている人間にとって、大きな手がかりときっかけを与えてくれるからです。丹後でも、そんな人たちと会いました。
織物の里丹後は、着物文化の衰退に合わせて、産業の衰退に直面。産業の生き残りをかけた取り組みが続いています。織元さんの協同組合が、ここ何年かフランスのデザイナーとの交流を通じて、新しい織物文化の想像を目指して取り組みを続けています。きものをきものの形を生かして、他のファッションに生かすとでも言うような取り組みです。百貨店に入社して初めての職場が呉服。下積み時代に、さまざまな着物と帯の生地に見て触れて以来数十年、きもの文化へのリスペスクは今も変わりません。最近、特に、きもの文化の衰退のスピードが速くなってきたように思えてなりません。今は、きものという形にこだわらず、産業が引き継いできた織物の技術と文化だけでも、後世に残す手伝いをしたいと思うようになりました。その思いで、この春、ほぼ一年かかって、丹後ちりめんを使った扇子を丹後の織元さんと京都の扇子工房二社と協力して制作してもらいました。
織物は人の発展と歩みを合わせて発展してきました。インドで現地の女性自立支援をおこなっているニマイニタイの廣中さんが、毎年うちのギャラリーに出品する洋服などの作品を見ていると、産業革命のベースになったインドの織物文化の歴史と凄さを再発見します。ブロックプリント、ガンジーが広めた手織り綿の機織り=カディ、インドで昔からある刺子、さまざまな技術が残ってます。ブロックプリントはヨーロッパにも伝わって、今はチェコの田舎の地方に一部残り、伝統工芸として保存されているそうです。その写真を見たらインドのブロックプリントの道具と酷似してました。ミャンマーの北の街に旅行した時、名産品として紹介されたのが、絹織物。この土地はバングラデシュに近く、第二次大戦前は仏領インドシナと言われる一帯で、インドと隣接した地域。織物もインドの北の産地から伝わってきた土地です。その歴史が繋がって伝統産業に発達したんだな理解しました。素晴らしい織物の文化はヨーロッパ、アジアはもちろん、最近はアフリカも注目されています。鮮やか色をふんだんに使うデザインは日本でも人気が盛り上がってきました。そのアフリカで繊維業を営んでいるのは、圧倒的にインド人が多いとの話を聞いた時は、やっぱりインドかと思いましたが。
日本の織物の文化は技術の卓越さに抜きん出ていると思います。絹、綿、麻自然素材を生かした織物文化が全国地方地方に生まれ、今も継承されています。皆普段着から出発したのが、伝統工芸品として高級品として重用されてます。いくつもの時代の荒波に生き抜いてきた工芸の力強さの証なのかもしれません。その数とレベルは世界屈指のものだと思います。温潤多湿な気候が織物生産に適した環境であったことも関係しているのかもしれません。(でも、世界各地の少数民族の民族衣装に精緻な技で織られた紋様の生地をみると、日本に限らず営々と引き継がれてきた織物の技が残ってます。やはり、人の歴史と織物の歴史は綾なしているのでしょうね)
冒頭の82歳の作家さんは、イギリスのリバティ社の生地で洋服を作っている作家さんです。綿の生地で世界に多くのファンを持つリバティ社。創業期の黄金時代を支えたのが、アーツアンドクラフト運動を牽引したウイリアム・モリス。リバティ社はモリスのデザインを生地に取り入れて大成功を収めました。モリスデザインの生地は今も人気です。今も古くなく新鮮で新しい。本物のデザインの持つ力なのでしょうか。綿織物とは思えないほど滑らかな肌触りと少し重みのある質感。リバティ社の生地は素敵です。イギリスの織物業の力を感じます。その生地に虜になる人は、今までの人生で色んなファッションを楽しんだ世代です。歴史と文化に支えられたものづくりは、時代を経て残っていくのでしょうか。リバティとモリスとの出会いのように、その時代の先端のデザインが取り入れた時、新たな価値となって時代の荒波に耐える力を持つのでしょうか?。
京丹後を後にして南に下り、京都市内に車を走らせてながら、地域の産業と文化に思いを馳せました。
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