つらつらと


小田和正の「言葉にできない」、lalala,…..言葉にできない〜♪。
ちょっと古いか。でもどっかで聞かれたことがあるかと。

人は言葉にできないことを伝えるために、詩や音楽や、絵や彫刻などなどを使って表現して来たそうです。まさに芸術、アートと言われるものは、まさに「言葉にできない」ことの表現であるようで。
このアートと呼ばれるものも、近代ヨーロッパを中心に形作られてきた芸術の概念が、ここにきて大きく変化して来ているようです。アジアアフリカを含め、世界の文化の発展を取り込んで再構成すると芸術の定義そのものが変化して来ているようです。イギリスで起こったアーツアンドクラフツ運動であるとか、日本の民芸運動であるとかも含めてアートの概念の再構築が進んでいるようです。

東京に行った帰りに、山梨県の北杜市にある平山郁夫シルクロード美術館によりました。シルクロードに残る仏教遺跡から発掘された、仏塔、仏像、彫刻の数々が展示されてました。表現の技術、精神性は時代が経たから進歩するとかという基準はないですね。素晴らしいものは素晴らしい。技法の発見と進化は技術を発展させるけど、精神性は時間の優劣はないような感じかします。ラスコーの壁画に魅入るのもそんな気持ちからかもしれません。

10月に入って、東京をウロウロして、昨日、京都の丹後へ行って帰って来ました。いろんなものづくりの現場を拝見しながら、また、試行錯誤の連続が始まった感じです。
最近、facebookもインスタも面倒になってきて、投稿をサボってますが、いかんですね。誰かやってくれないかななんて😅。
コロナ後がどんな社会になるか、この関心が高くて、いろいろ見たり読んだり考えたりしてましたが、ついに、もう少しひろく見ないと行けないんではないかと思い、日本の現代史、世界の現代史、概ね1930年頃から現代に至る100年間の歴史を読み返してみようと思い、読み返しておりました。まだ、その途中なんですが、世界も日本もこの100年の社会の変化は凄まじい勢いとスピードで変化して来てること。事件に次ぐ事件で社会が変わって来たことがよくわかります。今の新型コロナ感染の世界的なパンデミックで、視点が近視眼的になってますが、変化はどんどん進んでいることがわかります。

日本で言えば、特に気になったワードは、「近郊」という言葉。都市と地方という区別で日本の社会を語ることが多いのですが、都市の周りに形成されてきた「都市近郊」という街と文化の概念がずいぶん広がっていること。そこに生活する人が膨大な量になっているということ。人口の都市集中が進み、都市に通勤する人の住宅地として、近郊の地域の開発が進み、そこで生活する人の衣食住環境を支えるために様々な商業形態が近郊に生まれる。代表的なものは、チェーン展開する小売。イオンモールであるとか、ヤマダ電機、コンビニ各社であるとか、青山であるとか、くら寿司、ホームセンターなどなど。ほんとに、日本どこに行っても同じ看板が立っているのにはうんざりしたこともままあります。北海道に行った時、地元のコンビニのセイコーマートが頑張っているのを見て何故かほっとしたのを思い出します。画一化された生活文化の中に、いつの間にか住まう人が多くいるという現実。
そして、核家族化、少子高齢化がその近郊を含めて、日本全体に広がっている。家族でさえ、同じ部屋で同じ時間を過ごす機会が少なくなっている。理由はさまざま、長時間労働に縛られるお父さん、受験競争に縛られる子供、あるいは、デジタル技術の浸透で一人スマホに熱中してしまう機会が増えたのも。
個に閉じこもる生活が広まったのも、特に最近の傾向だとか。これを人間関係の分断と呼ぶ人もいたり。最近その典型としての引きこもりは2019年で40歳未満でおおよそ54万人。

長くなりそうですので、ここらでとりあえずやめます。1990年以降、デジタル革命で日本に起きていた社会と意識の構造の変化が特に進み、そしてコロナ。コロナ感染が収まったあとどんな生活スタイルが表れてくるのか興味津々です。おそらく、中間層とか言われ旺盛な消費者の中心だったのは、この近郊の生活と文化を担っていた人たちだったと思います。
消費者文化は変わるのか変わらないのか。文化のリーダーは誰が担うのか。

京都から昨日帰って、今日、店に出かけました。名古屋栄の地下街も街もすごい人で溢れてました。まさに老若男女、ことごとくの世代が動いてます。どうこれから社会は動くのか。
日本は明るくなるかと思いきや、株価が下落、円安、原油高。日本の巨大な国債残高に再び懸念が高まってます。ほんとにどう動くのか。気になるところですが、とりあえず、人流が戻って来ました。できることを一歩ずつ。
(2021年10月 作成)


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