映画 胸騒ぎ 〜道徳的社会の敗北、善良である事の罪と罰〜
彼らはどこで引き返すべきだったのか。
どこまでだったら逃げ切る事が出来たのか。
生死を分ける分水嶺はどこだったのか。
見終わった瞬間、肺に真っ黒な汚物が溜まったような胸騒ぎを感じながら、私の頭は混乱しながらも、あの家族がどうしたら助かったのか考えざるを得なかった。
私は映画に感情移入するタイプの人間ではないのだが、今回は他人事とは思えなかったのだ。
人の親切を無下にするような人間になる位なら、(例え相手がシリアルキラーだとしても•••)死んだ方がマシだと。
そこまで人間を麻痺させてしまう怖さを、小さな要求を少しづつ飲ませ、じわじわと主人公を支配していくことで描いていく。
この映画の怖さは、恐ろしい幽霊が出ることでもなく、凄惨な殺人シーンを見せることでも無い。
この映画の本当の怖さは、善良な市民である事、そしてそれを求める道徳的社会の危うさを浮き彫りにしてしまった事のように思う。
我々は社会生活の中で人を疑わないこと、争いを避け、異文化の人にも友愛を示し、和を尊ぶことを教えられてきた。そのような道徳的社会を築き上げることで、悪は無くなっていくものだと信じてきたのだ。
しかし、それは間違っている。
人の道徳心を逆手に取り、いとも簡単に裏切り蔑み搾取していく、そのような悪は決して消える事無く、今後も確かに存在し続けるのだ。
平和ボケし、善良的な社会性を身に付けた我々は、彼らにとって稚拙な獲物でしかない。
終盤、絶望的な状況下で主人公は問う。
「なぜ、こんな酷いことを?」
その問いに、殺人鬼パトリックは言う。
「お前が差し出したんだろ」
悪いのはお前らだ、と言われた気がした。
主人公は娘が攫われても、抵抗する意思も逃げる素振りも見せない。
観ていてとても歯痒い。なぜ反撃しないのか。
殺人鬼と心中するほどの怒りが芽生えてもおかしくない。
自分の娘の舌が切られ、略奪されてしまっているのに、主人公は震え妻に謝るのみなのだ。
主人公は度重なる要求を受け入れ、正常性バイアスに陥ってしまっていた。
危険が迫っているにもかかわらず、「自分は大丈夫」と思い込むことが正常性バイアスであり、それが彼らの狙いだった訳だ。
それは例えば、地震がきても自分は避難行動を起こさなくても何とかなると思ってしまう傾向が、誰の心にもよぎることがあるのと同じことだ。
そう、これは誰にも起こりうることなのだ。
自分の子を悪魔に差し出す罪として、ラストに石打ちが執行される。
善良であり続けた、その罪を償う為の石打ち。
悪を、見ざる 聞かざる 言わざる
See no evil, hear no evil, speak no evil.
押井守監督の「イノセンス」でバトーも言っていましたね。
これは西洋の諺にある、
幸運が姿を三度現すように、不運もまた三度兆候を示す。
という言葉である。
主人公たちは三度、逃げるタイミングがあったが、一番最初のタイミングで戻るべきでは無かったのだ。逃げおおせた家族も過去にいたのだろうが、今回はバッドエンドまでいってしまった。悪について「言わない」と言うことは悪を助長し、その存在を認めること。
監督はインタビューで「この映画は風刺映画でありホラー映画である」と答えている。最後に監督の言葉を引用しておこう。
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