離婚道#20 第3章「ただ悪より救いたまえ」
第3章 離婚前
ただ悪より救いたまえ
雪之丞は執拗に私を責め続け、私は連日の追求と反論に疲弊していた。私は医学的には原因不明の胃痛で、胃薬をもらいに病院に通い続けていた。
浮気の追及から3カ月ほど経ったころ、雪之丞は毛筆で書いた手紙を私に渡した。
「まどかはいま、剣が峰に立っている状態だ。すべてを話して罪を認めれば、これまでのことは一切水に流す。吉良雪之丞は水に流すことができる人間だ。私の仕事はこれから大きくなる。まどかが正道に戻って私と一緒に高い世界にいくか、悪の道にはまり堕落するか、自分で選ぶしかない。まどかを救えるのはこの世で吉良雪之丞だけだ。自分で正しい決断をしなさい」
雪之丞の毛筆は、本気で私を悪の道から救おうという覚悟のあらわれだった。
やはり、脳の異常としか考えられない――と思い至った。
それまでも脳の病気を疑い、私は毎日のようにパソコンで検索していた。
得られた情報から、脳腫瘍の後遺症による妄想ではないか、と思った。あるいは若年性アルツハイマーによる妄想かもしれないとも疑った。雪之丞は65歳、もう高齢者なのだ。だとしたら、雪之丞が脳の病気だとしたら……浮気女扱いされてどんなに腹が立っても、人道的には雪之丞を見放すことはできない。
雪之丞にはそれとなく、「先生の妄想が心配だ」と言ってみたが、案の定、
「お前は俺を妄想狂にするのか!」
と激怒された。だから、正攻法で病院の受診はできない。
悩んだ末、雪之丞の脳腫瘍を執刀した脳外科医に相談メールを送ることにした。「吉良には内密でお願いします」と添え、雪之丞の妄想が発症した時期とその内容、普通に食事や仕事をしていることや、毎晩瞑想していて睡眠時間が少なくなっていることなど日常生活についても書き込んだ。
すると数日後、医師から返信が届いた。
「拝見いたしました。ご主人から毎日疑われ、追及されて、大変だと思います。奥様のご心労、お察しいたします。しかしながら、いただいた情報では、脳腫瘍の後遺症とは考えにくいです。吉良さんのもともとの性格的なものもあるでしょうし、お仕事などで疲れ、さらに寝不足が続き、一時的に被害的な妄想が出ている状況なのではないかと拝察いたします。奥様、どうかあまり深刻に考え過ぎないようにしてください」
――ガッカリした。現代医学は私を救ってくれなかった。
同じころ、古沢会計事務所の担当者、津川から電話があった。
「奥さん、どうしたんですか? ウチの古沢とはいつも、吉良先生が結婚してよかった、奥さんが経理をきちんとやってくれる人で安心だと話していたんですが」
「あぁ、吉良は津川さんに何か言いましたか」
「いえ、まぁ……。でも奥様が横領していれば、ウチの方ですぐにわかる話なんで、そんな事実はないとお伝えしましたよ」
「え? 横領ですか?」
津川によれば、雪之丞が古沢会計事務所に電話をし、私が雪花堂の金を横領しているはずだとして調査を依頼したという。会計事務所では、そのような事実はないことがわかっていたが、雪之丞の血の気に押され、一応調べたことにして、「横領の事実はない」と返答したそうだ。
これは非常に恥ずかしい事態になった。
横領なんて不名誉なことを、よくも他人に言ってくれたものだと怒りを覚えた。津川には、雪之丞に浮気を疑われ、浮気相手にお金を貢いでいると追及を受けていることを説明するしかなかった。
「でも津川さん、吉良は寝不足が続いて、一時的に妄想のようなものが出ているだけですから。それに、吉良には私が潔白だときちんと説明し、理解してもらいますから大丈夫です」
雪之丞が狂人と思われないよう配慮した。津川は
「お弟子さんだけでなく、今度は奥さんまで疑われて気の毒ですが、奥さんが先生から離れたら、会社が大変なので、頑張ってください」
と私を励まし、電話を切った。
そうなのだ。それまでも、雪之丞は、金を盗んだとする弟子を破門にしたことがあった。弟子を尋問したボイスレコーダーを渡され、1週間かけて反訳したこともある。その時は雪之丞に指示され、弟子への破門状も書いた。
「天網恢恢疎にして漏らさず。悪いことをすると必ず天罰が下る」
「疾しい奴は必ず逃げる」
雪之丞は、疑われた弟子が逃げるように去っていったのは、疾しいからだと捉えていた。私は、質の悪い弟子が来た雪之丞に同情したものだった。
だが、自分が雪之丞に疑われるようになって、改めて、過去に疑われた弟子たちのことを考えてみた。破門された弟子も案外、私と同じ被害者だったのではないだろうか……。
雪之丞の妄想について、私は脳疾患を心配したが、脳外科医はそれを否定した。また、古沢会計事務所の津川も医師と同じように、雪之丞の性格的特徴だと口をそろえた。
雪之丞の性格上の問題――そのことに気づいたこの時、私は自分の人生を軌道修正すべきだったのかもしれない。その時、私はまだ40代半ば。今よりももっと自信を持って、人生をやり直せたかもしれない。
しかし、私はそうしなかった。いま思えば、本当にどうかしていたと思う。
「天網恢恢疎にして漏らさず」――私が正直に生きていることを天が見ているはずだ。
「疾しい奴は逃げる」――私は疾しくないから、絶対に逃げない。
雪之丞から聞かされていた言葉を復唱し、私に向けられた疑いには、逃げずに正面から立ち向かって反論するしかないと思い込んでいた。
雪之丞の仕事は道半ば、こんなことで私が逃げるわけにはいかない――と。