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離婚道#23 第3章「後継者指名」

第3章 離婚前

後継者指名

 平成28(2016)年6月だった。
 丸2年もの間、私に執着し、不貞や犯罪を疑い続けた雪之丞は突然、憑き物がおちたかのように私に無関心になった。
 そのうえ馬鹿に機嫌がいい。私に対する浮気の追及も、突然家にガバッと帰ってくることもなくなった。あのエログロナンセンス行動も消失した。
 あまりの変化に、最初は狐につままれたように感じた。
 この2年間、私はいつ疑われても反論できるように、自分の行動の証拠と記録を残し、常に緊張感ある生活を続けていたので、本当に戸惑った。そして、雪之丞の妄想が治ったのかもしれないと思い、少し安堵した。
 ただ同じころ、雪之丞は休日に「掃除に行く」と頻繁に雪花堂に出かけるようになった。それまでにもたまに、弟子数人の稽古で休日に事務所に行くことはあったが、そういう時はいつも昼食で一旦帰ってくる。しかし、掃除の日は不思議なことに「昼食はいらない」という。
 すると今度は、雪之丞の出勤時間が早まった。
 雪之丞の出勤は7時すぎだったが、唐突に「私は明日から、朝の時間に芸術論の本を書くことにする。だから1時間早く起こすように」と言い出し、6時に家を出るようになった。
 本を書くと言うから原稿用紙を渡したのだが、雪之丞が何かを書いている様子は見られない。さらに、「これからは朝も風呂をわかすように」と命じた。そのため、私の起床は4時半になった。
 そのころ、雪之丞が国産デニムの専門店で、洒落た藍染のジーパンを買ったことには一番驚いた。結婚前、雪之丞は年の若い私に合わせ、一度ジーパンを着たことがあったが、「先生はジーパンじゃない方がいい」と私が意見し、以来、全く着用していない。それが突如、ジーパン姿で雪花堂に行くようになったのだ。
 男の服装の変化は、女の嗅覚を刺激する。
 ――67歳で回春?
「まさか雪之丞が……」と思いながらも、「だとすると、相手はだれだろう……」という考えがよぎった。
 そんな時だった。
「金を出してやるから、母親と九州でも旅行してこい」
 雪之丞が珍しいことをいう。
 私はそのころ、母妙子との関係が戻り、月に数回実家に帰るようになっていた。
 旅行をすすめるなど、結婚14年で初めてのことで、とてつもない違和感を覚えたが、何か言って雪之丞を怒らせたら旅行に行けなくなる。私は雪之丞に指定された9月下旬の日程で5日間、妙子と長崎と佐賀の温泉旅行に出かけた。
 私が留守にする際はいつも冷蔵庫に作り置き料理を入れておく。この時も5日分の食事として、カレーと野菜の煮物の小鍋を2つ、冷蔵庫に入れておいた。
 だが、九州旅行から帰宅すると、作り置き料理がそのまま残っていた。信じられなかった。体内に農薬や化学物質を入れたがらない雪之丞は基本的に外食を好まないからだ。料理に手をつけなかったことについて、「忙しかった」との弁明もきわめて不可解だった。
 その翌日のこと。
 雪之丞にお弁当を届けると、ちょうど雪之丞が稽古中だったため、弟子の富田和子に渡した。いつもは軽く天気の話をする程度なのだが、この日の富田は妙に饒舌じょうぜつだった。
「おとといは先生、新しく北海道から来た藤田さんと一緒に葉山と鎌倉に行かれたようで、藤田さんも楽しかったと喜んでいました。藤田さん、初めて鎌倉の大仏を見たそうですよ」
「あっそう。それはよかった。藤田さんって?」
「6月から新しく勉強に来ている弟子の藤田奈緒さんです。まだ20代ですけど、先生は後継者にすると言って毎日朝晩2回、鼓や呼吸法の個人レッスンをやっていますよ」
「あぁ、その方ね」
 やっとの思いで話をあわせた。
 ・・・・・藤田奈緒と鎌倉葉山だって?
 そういえば、数カ月前のことだったか、
「北海道から若い子が勉強に来た。パニック障害で対人恐怖症という問題を抱えた子だが、素質があるから弟子として給料を出すことにした」
 そんな雪之丞の報告から、雪花堂の弟子がひとり増えたことを確認している。「問題を抱えた子」ときいていたから、全く気にも留めてなかった。それが藤田奈緒なのだろう。
 がしかし、雪之丞は藤田と鎌倉葉山に言ったことも、後継者を藤田に決めたことも、毎朝毎夕、藤田を個人レッスンしていることも私には言わなかった。
 私は将来、「吉良雪之丞物語」を書くために、ほぼ毎日、雪之丞のことをB5サイズの黒い手帳に記している。毎年買い替える手帳は、もう14冊目になった。雪之丞自身、「私に関することはすべて書け。それがまどかの財産になるから」と言い、夕食時、新しい出来事や仕事の話をすることは雪之丞の日課になっているのだ。
 それなのになぜ、雪之丞は「後継者指名」という、きわめて重要な事柄を私に隠しているのか?
 雪之丞は結婚後、仕事以外で女性と外出したことはなかった。まして、雪之丞は「弟子は弟子だ」という考え方で、弟子と休日に出かけるなど、あり得ないことだ。
 思えば、毎朝の出勤時間が早まり、朝風呂に入るようになったこと、私に盛んに旅行を勧めたこと、作り置きの料理に手をつけなかったこと、そしてジーパン姿で出勤するようになったこと……。ここ最近の違和感が、藤田の出現と結び付けると、すべて合点がいった。
 さて、どうしたものか――。
 私は帰宅した雪之丞に準備していた質問を重ねた。
 雪之丞は、
「まどかの旅行中に、急きょ、葉山の弟子のところに藤田を連れていっただけだ。私は藤田を吉良雪之丞の後継者として育てることにしたから、そのつもりでいるように」
 と、いつも以上に高圧的だった。
「問題がある子としか聞いてないから、その子が先生の後継者なんて、全く知らなかった。そんな重大なこと、なんで私に言わなかったの? 掃除に行くと言って休日に外出していたのは、北海道の子に会うためだったの? 先生が朝風呂に入って早い時間に雪花堂に行くようになったから、私は毎朝4時半の起床になったのに、どうしてその理由を本の執筆と〝間違った説明〟をしたの?」
 語感が鋭い雪之丞を無駄に怒らせないように、「嘘」を「間違った説明」と変換して言えるほど、私は冷静だった。
 雪之丞の顔から汗が噴き出している。
「まどかに藤田のことをいうと誤解するから、言わなかっただけだ」
「先生、最初から後継者だと聞いていれば、誤解するはずもないよ」
「いいや、まどかは必ず誤解する。現にいま、誤解しているじゃないか」
 雪之丞は支離滅裂な言い訳をした挙句、
「藤田は私の後継者だから、個人授業は続ける」
 と最終的に開き直った。
 そこで私は、ずっと抱えていた疑問を口にした。
「先生、後継者ってなぁに? 雪花堂の次期社長ってこと?」
 雪之丞は伝統芸能の宗家ではない。著名人に人気の身体操法も、きちんとした組織になっていない。なのに、後継者って……藤田が「2代目吉良雪之丞」を名乗るシステムなのか、まったくちんぷんかんぷんだった。
 にわかに雪之丞は慌てた。
「何を言ってる! 私は雪花堂を継がせるとは言っていない。後継者にするというのは、私の技術や経験、精神を全部授けるという意味だ」
 焦っている雪之丞を怒らせないよう質問を重ねたところ、藤田が大鼓や古武術を教えるとか、講演活動するとか、舞台関係の仕事をすることではないという。もちろん「2代目吉良雪之丞」になることでもない。それはそうだろう。藤田は20代で若すぎるし、なにしろ対人恐怖症なのだから。
 しかし、他の弟子に対しても、雪之丞は技術や経験、精神論を教えている。普通の弟子と後継者指名された弟子との違いがサッパリわからなかった。結局、「後継者」というのは雪之丞が藤田奈緒とふたりきりで会うための方便なのだということがよくわかった。
 最後に雪之丞は「いい機会だから言っておく」と前置きし、
「藤田は私の後継者になるために、北海道から上京してきているんだ。だから、東京ではマンスリーマンションを会社で借りて、藤田に住まわせることにした。会社の経費でやることだから、まどかは口出しするな」
 ピシャリと言い切り、持ち前の威圧感で会話を終わらせた。
 翌朝、風呂に入り、ジーパンを履いて家を出る雪之丞の後ろ姿に、私は理不尽な思いを抱えながら、「いってらっしゃい」と乾いた声を出し、思い切り火打ち石を打ってやった。

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