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離婚道#12 第2章「親の意見は後薬」

第2章 離婚ずっと前

親の意見は後薬

 結婚を決めた時、親が快諾してくれるのを望むものだ。だが、親の反対を押し切って結婚した人も、結構多いのではないだろうか。
 私の場合、退職から入籍まで半年以上時間があいたのだが、それは親の反対があったからだった。
 平成13(2001)年9月、両親に対して、結婚は決定事項としての報告になった。つきあい始めて3カ月で結婚と退職を決めてしまったから、仕方ない。
 母妙子は大慌てであった。
「まーちゃん、また悪い病気にかかったみたいにのぼせてる。苦労して、誰もがなれない職業に就いたんだから、定年まで働いた方がいいよ。いま辞めたら、厚生年金、ほとんどもらえないじゃないの。仕事を続けるかどうかは、老後の人生に大きく影響するんだよ。たとえ結婚したとしても、仕事は続けた方がいい」
 まずは現実的な視点で結婚退職を反対した。
 さらに、相手の人物説明をきいて、また猛反対。
「お母さん、そんな離婚歴があって、子供が2人もいて、それなのに子供たちに会わせてもらえないなんていうバツイチの五十男、イヤ! だいたい、能の世界から破門されたような男なんでしょ! お母さん、そんな人、信用できない。新聞記者の若い女を利用したいだけじゃないの⁈」
 当時58歳の妙子は、52歳の雪之丞を「五十男」と名付けて毛嫌いした。そして絶対に会いたくないと言い張った。
 私は妙子に、どうしても雪之丞を会わせたい。会えば考えも変わるだろうと安易に考え、作戦を立ててみた。
 妙子が銀座に用事で出てくると言っていた日に、数寄屋橋の交差点で待ち合わせるようにして、そこに雪之丞を内緒で連れて行くことにしたのだ。雪之丞には母への刺激を和らげるため、洋服で来るようにお願いしておいた。
 平成13年10月の日中、不二家のペコちゃんの横に母妙子が立っていた。そこに私が雪之丞を連れて行くと、一瞬、妙子の全身が固まり、かなりひきつった顔で
「まーちゃん、そういうことだったの?」
 とささやいた。ひと呼吸置くと、顔の筋肉を使って無理に笑顔をつくり、雪之丞にあいさつした。
「まどかの母です。まどかがお世話になってるそうで……」
「吉良雪之丞です。こちらこそ、まどかさんにはお力添えをいただいています」
 そこで私が「お茶でもどう?」と言おうと思っていると、妙子が先手を打った。
「あのね、お母さん、もう帰らないといけないの。だから、まーちゃん、また今度ね」
 と私に早口で告げ、「それでは失礼いたします」と雪之丞の顔を見ずに頭を下げると、くるりと踵を返し、足早に地下鉄の出入り口をかけ降りていった。なんとも素早い判断と身のこなし。
「先生、母がすみません」
「仕方ないね。お母さんは反対なんだから」
 
 その数日後、実家へ行くと、母妙子はよほど雪之丞が気に入らなかったらしい。雪之丞との結婚を思いとどまるよう、私を必死に説き伏せようとした。というか、これでもかというほどの悪口三昧だった。
「まーちゃん、今度ばかりは本当に目を覚ましなさい。お母さんは、においでわかるの。どうもあの五十男は胡散臭うさんくさいよ。能楽プロデューサーだか、立派な先生だか知らないけど、あの妙に偉そうな態度も鼻につく! お母さん、もう五十男には会わないからね」
 心の準備もなく、雪之丞を会わせたのは失敗だった。妙子は雪之丞アレルギーを起こしていた。
 一方、父の進は、雪之丞と会ってくれるという。
 東京・本郷で生まれ、中学2年生の時に父親を亡くした進は、5人兄弟の長男として高卒で大手電機メーカーに就職し、弟たちの面倒をみてきた苦労人だ。会社では電子部品の世界で、業界を牽引するような営業マンとして活躍し、50歳で独立した。秋葉原で電子部品を扱う「アキバ電工」を設立、25人の社員を抱え、社長自らトップ営業マンとして頑張っていた。当時59歳だった。
 銀座の天ぷら屋で父と雪之丞を引き合わせると、私が雪之丞を「吉良先生」と呼ぶので、父もそれにならって「先生」と呼称した。
「吉良先生、うちのやつが『年が違い過ぎる』とかで反対してますけど、まどかがいいっていうんだから、おれはいいと思ってる。だってそうじゃん。結婚するしないって、本人同士の問題だからさ」
 父は全く飾り気のない、いつもの調子で、緊張気味の雪之丞をなごませた。
 食事を終えると、私たち3人は、父が行きつけという銀座のクラブに場所を移した。
 グランドピアノが置かれ、テーブル席2つ、6人座れるカウンターがあり、ホステスはママを含めて3人という小ぢんまりしたクラブ。雪之丞はそのような場所に全く慣れてないようで、ホステスの横で終始姿勢よく座り、「なんだか、やんごとない雰囲気の方ね」などと言われていた。父はホステスを楽しませるムードメーカーとなり、ひとりで場を盛り上げていた。
 私は終始、雪之丞に気を遣い、全く楽しくなかったが、やっと、そろそろ帰ろうかというころ、父は雪之丞に言った。
「先生さぁ、おれは先生と違って、こんな感じだから、ちゃらんぽらんでべらんめぇで、うちのやつには『品がない』とか言われるけどね、それにずいぶん遊びもしたけどさ、それでも離婚はしなかった。家族のために、夫婦間にどんな問題が起きても、努力して、夫婦関係を維持したんですよ。でも、先生は1度離婚してる。いや、夫婦のことだからわからないよ。でも、そういうことなんですよね。親がまどかのことを心配するのは」
「はい、よく分かります。しかし、心配はいりません。私にとって、まどかさんは天から与えられた宝物だと思っています。私はこれからの人生、まどかさんと一緒になって、後世にのこるような大きな仕事をするつもりです。ですから私からの離婚はありません」
「わかった。それでもさ、まどかと出会ってからまだ数カ月じゃん。まずは一緒に暮らしてみて、入籍するのはその後でいいんじゃないの?」
 父は、ふざけているような柔らかい口調ながら、多少ドスをきかせた。
 
 年が明けて平成14(2002)年2月に私は中央新聞社を退職した。母の反対と父の提案を受け、すぐには入籍せず、私は雪之丞と同棲した。
 が、雪之丞が結婚を急いだ。すでに仕事を辞めていた私にとっても、同棲が無意味のように感じられた。次第に、反対していた母も諦めたようだった。
 同年9月、雪之丞の母親が三男と暮らす大阪府泉佐野市に、私の両親と兄、つまり私の家族全員が出向き、両家の顔合わせを行った。雪之丞の父はすでに他界していて、吉良家は母親と雪之丞の3人の兄たちが集まった。
 席上、母も社交的に振る舞い、根っからの営業マンの父は、そこでも場を盛り上げて、和やかに両家の顔合わせは終わった――と思っていた。
 ところがその夜、大阪のホテルの部屋に戻ると、雪之丞は激しく怒っている。
「まどか、よく聞け。おふくろとの別れ際、『あちらのお母さんは、口には出さないけど、どうも雪さんとの結婚に反対している感じがするね』と言われたよ。80歳を超える年老いた私のおふくろに、そんなことを言わせるなんて、全く酷い話だ。私はまどかの母親を絶対に許さないからな!」
 雪之丞が4人兄弟の末っ子だから、マザコンなのかもしれないが、そんなことはどうでもいい。発言の内容があまりに身勝手だし、雪之丞の口調がキツ過ぎることにもゾッとした。
 雪之丞の母親が何をどう思ったか知らないが、20歳も年が若い嫁の両親が反対するのは当然のことだし、そんな中でも、母妙子はがんばって社交的に振る舞っていたではないか。
 私はこの時、初めて雪之丞の独善的な一面を見たわけだが、すでに中央新聞社をすでに辞めてしまっている。もう新聞記者に戻れない。私は雪之丞と結婚するしか、進む道はなかった。
 その年の10月、33歳で入籍した。
 入籍後、私は実家へ行かなくなった。私が実家に帰るのを雪之丞が嫌がったからだ。
 いま振り返れば、私自身、おおいに反省すべきところがあったと思う。所詮他人である雪之丞を信じ過ぎていたため、家族のダメなところまで話してしまっていた。
 女性問題で何度も母を泣かせた父、浪費家で貯蓄できない母、芽も出ないのにアルバイトをしながら舞台役者を続ける兄。雪之丞に言わせれば、寺尾家の面々は私以外、全員「クズ」だった。
「まどかはあの家に生まれ落ちただけだ。私と結婚したことで、まどかは寺尾家から離れて、私と一緒に高い世界にいくことができる」
 雪之丞の言葉に、完全に同調したわけではない。
 当然、私を育ててくれた両親への特別の情がある。子煩悩で優しい父、喧嘩しながらも友達のように仲良かった母。両親を慕う気持ちがありながら、夫になった雪之丞を最優先させた。
 吉良姓になり、雪之丞優先の生活になった私としても、娘の夫を信用しない母親との会話が億劫になっていた。
 そうして結婚後から約12年間、私は親と全く疎遠な生活になったのである。

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