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離婚道#36 第5章「からくり珍協議」

第5章 離婚裁判へ

からくり珍協議

 日本の弁護士は全員、「弁護士会」という団体に登録しなければならないらしい。
 ニュースなどでよく耳にする「日弁連」というのは、「日本弁護士連合会」の略で、弁護士会と個々の弁護士などで構成されている組織のことをいう。
 この強制加入団体である弁護士会は、地方裁判所(地裁)の管轄区域ごとにあり、北海道は4つ、東京都は3つ、それ以外の府県には1つずつ存在する。
 北海道に弁護士会が4つあるのは、広い北海道に地裁が4つあるため。東京都内の地裁は東京地裁の1つだけだが、弁護士の数が多過ぎて、戦前に派閥対立をした結果、「東京弁護士会」(東弁)、「第一東京弁護士会」(一弁)、「第二東京弁護士会」(二弁)の3つの弁護士会に分かれたそうだ。
 東弁、一弁、二弁の3つの弁護士会に、業務領域や活動地域などの違いはない。たとえて言えば、売っているものがだいたい同じ「三越伊勢丹」「高島屋」「大丸松坂屋」のデパート3社みたいな感じらしい。
 また、各弁護士会には「○○委員会」という組織が多数存在する。人権擁護と社会正義の実現のため、弁護士は手弁当で委員会活動に励むというのだ。委員会活動にのぞむ意欲や姿勢は個人差があるだろうが、無償の社会活動を行う委員会が多数あるのは、弁護士が、社会問題に高い意識を持っていることのあらわれだろう。
 私の代理人弁護士である久郷桜子弁護士と〝用心棒〟の小島正太郎弁護士は、一弁の所属である。久郷弁護士は、子供の人権救済を行う委員会など複数の委員会に所属し、小学校でいじめ問題についての講演を無償で行うなど熱心に社会活動している。その傍ら、所属する各委員会での〝宴会部長〟としても大活躍しているようだ。小島弁護士は、久郷弁護士が所属する委員会の後輩弁護士にあたる。
 
 雪之丞との離婚協議は、令和元(2019)年8月5日で決まった。
 場所は、霞ヶ関の弁護士会館。ここには、日弁連をはじめ、東弁、一弁、二弁の本部事務局が入っている。各本部事務局には、小さく仕切られた複数の面談室があり、依頼者との打ち合わせなどで使われる。雪之丞との協議場所は、一弁本部事務局内の11階の面談室で行われることになった。
 午後3時の協議時間の1時間前に、日比谷公園内にあるガラス張りの喫茶店で、弁護士との打ち合わせをした。小島弁護士とは初顔あわせであった。
「はじめまして。弁護士の小島正太郎です。久郷先生とコンビで事件を担当すると、面白い展開になることが多いので、今回も引き受けることにしました。よろしくお願いします」
 感じはいいが、やや不安になるあいさつである。
 用心棒役に選ばれた小島弁護士は45歳の独身。「数字に強い」という前評判から、ガリ勉タイプのお堅い弁護士を想像していたが、入浴中のカピバラに似た感じの穏やかでのんびりしている印象だ。名刺には「神楽坂法律事務所」とある。
 久郷弁護士は小島弁護士を次のように紹介した。
「小島先生は、祖父の代からの弁護士家系で、三代目なんですよ。『三代目社長は会社をつぶす』なんてよく言われますけど、弁護士は司法試験に合格しないとなれないから、俗にいう三代目とは違って小島先生は優秀です。だからまどかさん、安心してください。でも、三代目の天質なのか、どんな時でも慌てないところがあるんです。たとえば飲み会に遅れそうになると、私なんかいろいろ気をつかって全力で走りますけど、この人は三代目だから絶対に走らない。そういうところがムカつくんだけど、職人気質なところがあって、数字にも強いんです」
「ちょっと、久郷先生、依頼人に対して、明らかな悪口じゃないですか。心外だなぁ。名誉棄損ですよぉ」
「小島先生、わたくし先生の長所を紹介して褒めましたよ。しかも『事実を適示』しましたが、『公然と』ではありません。名誉棄損なんて、違うんじゃないですか」
 すぐにやりこめられるあたり、雪之丞に対峙たいじする場面での用心棒にはなりそうもないが、協議の席に男性がいることに意味があるのだ。
 雪之丞との協議では、財産分与について話し合われる。
 ふたりの弁護士は、今日の交渉では最初に少ない額を主張しない方がいいという。提示額をどうするか、あれこれ話し合い、結局、まずは「京都マンションの名義変更」を提示し、相手の反応を見ることになった。もし雪之丞が、とんでもなく低い額を提示するようなら協議を中止し、調停で話し合う方針だ。
 私たち3人は10分前に弁護士会館の面談室に入り、奥から久郷弁護士、私、小島弁護士の順で並んで着席。雪之丞を待った。
 時間ちょうど、着流し姿で雪之丞は登場した。白地に細かい十字を織り出した蚊絣の越後上布に、黒い紙布の帯を締めている。弁護士会館の無機質な面談室に、上布の着流しで裸足に雪駄という粋な身なりは、とてつもなく奇異に映った。
 3人並んで座るテーブルを挟み、正面に雪之丞が座った。雪之丞は私をジロリと眺め、
「まどか、よく来たね」
 と太い声で威嚇いかくした。
 家出から約ひと月。17年間夫婦だったし、別居後も毎日のように夢に出てくる夫だが、不思議なことに、弁護士会館で対面している目の前の夫がもう他人に見えた。緊張感はあるが、両脇に用心棒がいるから平常心でいられた。
 すると、雪之丞はゼニアの革カバンから紙を取り出し、卓上に広げた。
 ――離婚届だ。
 この用紙を雪之丞に見せつけられるのは2度目である。1度目はふた月ほど前の6月12日、自宅で。その時は白紙だった。今回は、雪之丞の署名が入っている。
「私は仕事でたいへん忙しくて時間がないから、早くこれを役所に提出して終わらせたい。まどか、ここにサインしなさい」
「吉良さん、それはすべて終わった後です」
 割って入った久郷弁護士が、さっそく本題に入った。
「7月10日に調停を申し立てましたが、吉良さんが話し合いで解決したいとのことですので、この場を設けました。話し合いでまとまれば、調停申立を取り下げます。争点となるのが財産分与ですが、吉良さんのお考えをお聞かせください」
「それは、そっちの要望を聞いてからです」
 やはり雪之丞、自分から手の内を明かさない。
「わかりました。こちらとしては、京都のマンションの名義変更を・・・・・」
「バカな!」
 雪之丞は、久郷弁護士の話をさえぎって一蹴した。
「京都のマンションは今、売りに出しています。財産分与したとしても、売れたとしたらの話で、売却価格の半額です。しかし、それだって本来、まどかに与える筋合いはない。私が稼いだ金で買ったんだ。そのマンションをまどかに渡すなんて、とんでもない! 久郷さん、私はまどかの悪事を長年ずっと腹に収めてきたんですよ」
「わかりました。まったく話し合いになりませんので、協議は決裂です。言いたいことがありましたら、調停でお願いします。本日はありがとうございました」
 久郷弁護士は淡々と言い切って立ち上がり、雪之丞に退席を促した。声を出すチャンスのなかった〝用心棒〟の小島弁護士も、久郷弁護士にならって席を立ち、ササっとドアを開けた。
 雪之丞は退室した――わずか3分、離婚協議は不調に終わったのである。
 面談室は1時間借りているという。たっぷり時間が余ってしまい、3人で今後の打ち合わせをすることになった。久郷弁護士には、私がロビーで雪之丞と会わないように、という配慮もあったようだ。
 久郷弁護士が、小島弁護士の〝三代目キャラ〟を笑いにし、そこから派生して「三代目 J SOUL BROTHERS」の話題で盛り上がっているうち、20分ほどが経過した。
「トン、トン、トン」
 面談室をノックして、受付の女性職員が入ってきた。声をひそめて言うには、
「久郷先生、着物の人がずっと、出入り口横の椅子に座っています。声をかけたら、にっと唇で微笑しながらも目が鋭くて、怖いんです。ちょっと変なので、一応お知らせしようと思いまして」
「ちょっと待って」と久郷弁護士が部屋を出て、すぐに戻ってきた。
「まずいよ。吉良に『いかがされました?』って訊いたら、『外は暑いから、ここで本を読んでいるだけだ。私がここにいたらいけないのか!』ってキレられた。目つきがヤバかった。あれ、まどかさんを待ち伏せしてるよ」
 すると女性職員がいう。
「あぁ、やっぱり。何か不穏な感じがしたんですよ。久郷先生、裏ルートを案内しますから、非常階段を使って裏口に出てください」
 先導されて全員で面談室をそおっと出ると、職員が〝くノ一〟のように素早い動きで「こちらです」と腰高の隠し扉を開けた。久郷弁護士、私、小島弁護士の順でくぐって通ると、暗い通路は非常階段につながっている。まさか、弁護士会館が、からくり忍者屋敷のような構造になっているとは!
 久郷弁護士はそこからの道順を職員から教わり、
「みっちゃん、ありがとう」
 とお礼をして別れた。
 久郷弁護士は、あとを続く私と〝用心棒〟に
「ウチらがいなくなったことが吉良にバレて、裏口を先回りされたら大変だから急ぐよ」
 と気合いをかけ、3人で11階から非常階段を全速力で駆け下りた。
 ドッドッ、ドッドッ・・・・・。
 ようやく3階まで降りて膝が笑い始めたころ、久郷弁護士はすぐ後ろの私に、事前に危険回避できた奇跡をハァハァ言いながら伝えた。
「彼女、私と同い年なんですけど、33年間、一弁の職員として働いているベテランなんですよ。言ってみれば、一弁の〝ぬし〟なんです。だから機転を利かせてくれたけど、もし待ち伏せされていることに気づかなかったら、事件になったかもしれないですよ」
「ハァハァ・・・・・先生、こんなことになって、すみません。まさか、吉良がこんな風に先生方に迷惑をかけるとは・・・・・」
「まどかさん、わかった? 私、言いましたよね。吉良は話し合いできる相手じゃないよって」
「はい・・・・・」
 私は息を切らしながら、ひどく落胆していた。あまりにかなしい失望であった。
「話し合いで解決したいから、直接要求を言ってください」という雪之丞の言葉を信じ、雪之丞に期待して、裏切られた。なぜ私は、長年ひどい目に合ってきた雪之丞に対して、繰り返し期待してしまうのだろうか・・・・・。私は本当にバカなのだろうか・・・・・。
 話し合いは3分で決裂したうえ、からくり忍者屋敷のような弁護士会館をヒヤヒヤしながら逃走。想像をはるかに超える最悪な形で離婚協議は決裂したのである。
 階段くだりを終えると、今度は裏口へ向かっての全力疾走。
「向こうは着物に雪駄だから、ここまで全速力で走らなくても大丈夫じゃないかなぁ」
 と後方から〝用心棒〟の声。体力はあるとみえ、息を切らしていない。さらに鷹揚なつぶやき声が続いた。
「それにしても、弁護士会館に、あんな隠し扉があるなんて、知らなかったなぁ・・・・・」
 なるほど、これが三代目気質か。数字に強い三代目弁護士の本領発揮は、これからなのだろう。
 結局、当初からの弁護士の見立て通り、離婚問題は協議にならず、調停で話し合われることになった。しかし裁判だけは避けたい。身が持たない。こんな悲惨な状況から早く脱したい。
 3人で弁護士会館の裏口に出て、今度は地下鉄の出入り口を駆け下りた。
「ハァハァ・・・・・。先生方、ありがとうございました」
「気をつけて帰ってね」と久郷弁護士は笑顔を作ってくれたが、申し訳ないほど髪が乱れていた。
 改札口で両弁護士に見送られた私は、なんとか調停で決着することを心の底から願っていた。

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